
No113.
[時代は変わった] |
2009.1.1 |
昨年後半、資本主義の「虚無」を見てしまったような気がします。
しかし、当面代わりのシステムはないのでしょう。それは、贈与に代わって交換が、経済システムとなったのと同じくらいの変化を私たちが経験するまでは、このシステムの下で生きていくことを意味しています。
本当のポストモダンの時代に入ったのでしょうか。
時代は、まことに気まぐれに角を曲がってしまったようです。これから私たちが経験することは、先人の言葉を借りれば、「悲劇」なのか「茶番」なのか、とても注意深く凝視(ミツメ)なければなりません。そして、私たちがそれぞれにどう時代に向き合うのか。メディアに関わる原点が、そこにあるのでしょう。
皆様のご多幸とご健康をお祈り申し上げます。
補足メモ
[昨年末に印象に残ったこと]
(1) |
TBSのドラマ「あの戦争は何だったのか/日米開戦と東条英機」を見た。視聴率や演出・演技のことは触れない。一番気になったのは、「シリーズ激動の昭和」として、TBSが試みているその意図は諒としても、ドラマからは昭和という時代の位置づけが見えないということである。その焦点は、非西欧の国における近代とは、西欧的基準の取り込みとそれへの抵抗の屈折した力学の果てに、私たちが何を選択したのかということにある。あの悪名高い「座談会・近代の超克」は、そうした屈折した問題意識の典型であろう。もちろん、だからといって「大東亜戦争肯定論」ではなく、「あの戦争は正しかった」というつもりはさらにない。ただ、「あの戦争は間違っていた」論は、戦後史としての現在において無力化されつつあるということだ。ドラマとしてそこに踏み込める可能性(シチュエーションと配役)を持ちながら、そこを通りすごしたことが残念だ。企画意図としての弱点だと思う。 |
(2) |
「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-」(水村美苗・筑摩書房)を読んだ。大変触発された。そこでは、明治維新において日本が経験した「西欧の衝撃」の中で、普遍語としての英仏独語の翻訳という知的行為を通して、地方語であった日本語は「<叡智を求める人>が真剣に読み書きする<書き言葉>としての日本語」「知的、倫理的、美的な重荷を負う<書き言葉>としとの日本語」「名実ともに国語としての日本語」として成立したことの意味を捉えかえそうとしている。学問の言葉と文学の言葉の関係を通して、日本語が国語としてそのように成立していく構造についての分析も説得的だ。「読まれるべき言葉」を持つことの意味と、日本語の現在とをつき合わせ、日本語=日本人=日本の将来への問題提起の書だと思う。 |
(3) |
ドラマ「あの戦争は何だったのか」が企画意図の未熟さゆえに取り逃がした問題も、「日本語が亡びるとき」が精緻な分析と危機感により抉り出した問題も、どちらも私たちにとって日本とは何か、今私たちは何処にいるのか、という政治的にスリリングな関係に関わる。間違いなく、私たちは「あの戦争」を挟んで明治維新以後の<近代化>の延長過程にいるのだが、それを仔細に読み解き、特に東アジアとの関係で思考する時代だと思う。だが、急がないと時代が私たちを追い越すであろう。 |
* 昨年秋に、このホームページの書き込み欄で「脱字が多い」というお叱りを受けました。変換ミスや誤字脱字について、仕事の合間に書いているから、という言い訳はありえません。心して、書いていきたいと思います。
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