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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No117.
[テレビとテレビ広告]
-戸隠で情報のことを考えた-
2009.3.1

 この季節は週末を戸隠で過ごすことが多い。今年は週末プラス1日と少し贅沢をしている。スキーを始めて40年近くなる。今シーズンは、1月中旬まではとても冷えて期待できたのだが、その後2度も雨が降りコースコンディションは良くない。スキー場で雨は最悪だ。先週は、久しぶりに悪くなかった。金曜日に宿に戻ると、親戚の訃報が届いた。日常を少し離れていたときに、不意に時間の裂け目に出会った気がした。
[戸隠スキー場ホームページより]
 戸隠では、30年前にそのときの現役社長が亡くなった、という知らせを受けたことがある。そのとき同行していた先輩が「オイ、これから大変なことになるゾ」といったのを覚えている。社長の死がどれほどのものか、そのときは分かっていなかったのだが、その後TBSは様々な事態を経験することになる。昭和天皇の崩御を知ったのも、その3年後の戸隠だった。景色はいつもと変わらないのに、空気が違う。時代の曲がり角に来たのかもしれないと思ったものだ。日常の中で大事件に遭遇するのと、それとは少し距離のある状況(例えば、スキー場)で予告なしの知らせを受けるのとでは、何かが違うのかもしれない。そして、しばしば予告なしの情報は向こうからやってくる。

 さて、スキー場の宿で受け取った訃報は、通夜や葬儀をどうしようという個人的な判断の問題なのだが、ある「知らせ」が何をもたらすかは、じつに様々である。情報は、送り手と受け手があって成立するのであって、ただ単に一般的に存在するものではない。ポスト工業社会は情報社会だといわれて久しいが、情報を産業として捉えるだけでは情報の本質は見えてこない。あるいは、情報処理という情報工学的な視点だけでもだめなのだ。日々生起する情報(原情報)をどう救い上げ、どう編集するか、という行為が原情報を情報にする(私的レベルでも「何を、どう伝えるか」という行為が成立する)。
 そう考えると、放送という情報行為は「誰に」という対象が「不特定多数」とされている点において、特異な形態だといえるだろう。逆からいえば、それ故に情報編集責任が厳しいともいえる。まして、誰もが放送サービスを等しく享受することを求められるとすれば、送信責任(安定性・継続性や「あまねく」努力義務、など)も問われるわけである。こうしたことが、放送という無線送信の特性によるものだとすれば、番組に関する規制を無線局免許に置くことは、単なる法技術的な問題ではなく、相応の合理性があると考えられる。つまり、免許主体が番組編集責任を持つことが、「ハード・ソフト一致原則」の原点であるということになる。それと対称になる「多元性」や「地域性」による言論の多様性の確保という規律・規制も、無線局免許との関係で体系化されているのであって、いずれも周波数監理の観点から放送制度の骨格が形成されている。
 「総合的法体系」(いわゆる「情報通信法」)の検討過程で、放送を含むレイヤー型の体系をどうするのかについて、「メディアサービス」という概念がなかなか定まらないのは、やはり放送という情報行為の特性によるものと考えられる。その「特性」が現実的に機能している以上、それを無視するわけにはいかないであろう。放送番組をネット配信することを促進するという産業政策的課題は、レイヤー型法体系とは別のテーマなのである。

 それよりも、現時点では最も影響力の強いメディア(いわゆる「基幹メディア」)である地上テレビ放送の危機は、その経営基盤である広告媒体としての地位が、ネット広告の伸張のみならず経済環境の中長期的影響により揺らぎかねないということである。放送は、広告という情報のあり方を問い直す時期を迎えている。北田暁大氏が「広告の誕生-近代メディア文化の歴史社会学-」(岩波現代文庫)でベンヤミンを踏まえつつ指摘する、大衆の<気散じ>の視線は、不特定多数を対象とする放送(特にテレビ)が、広告媒体として存在して来た有力な根拠であったと考えられるが、今や人々はネット上に<気散じ>の視線を巡らし、サイバー空間の「遊歩者」となっている。テレビがいかにしてこのサイバー空間とテレビ空間を結合あるいは混合するか、それを単なるネットビジネスに進出するという問題としてではなく、自らの存在理由として論理化することが必要なのだ。
 テレビにとって、広告はただの収入源ではない。情報編集と送信に加え、広告媒体として機能していることでテレビは成立している。広告はテレビというメディアの構成要因なのである。当たり前だ。それにもかかわらず、これまで、番組批評とCM論とを総合的に捉えたメディア論にあまりお目にかからないのは、テレビの怠慢なのではないだろうか。北田氏風にいえば、「<意味的/非意味的>を超えたところにCMが成立しているとすれば、テレビもまた<意味的/非意味的>が混在している。だから、「コイズミ現象」も起こりえた。このことを規律規制の問題としてだけではなく、テレビ・メディアの本質的な問題として捉えておく必要があろう。「テレビ的なるもの」とは何か、ということである。ついでに言えば、北田氏のいう、広告が内包する<香具師的>なるものは、芸能の世界にも共通すると考えられるのだが、そうだとすると情報責任とは一体何か。もちろん、そうであればこそ「番組基準」や「CM基準」が存在するのだが、メディア論的には興味をそそられる問題だ。とはいえ、「だから、総合編成ではダメなんだ」という話ではない。基幹メディアが機能するためには、常時接触率の確保が必要なのであり、時間軸による総合編成はそのための条件なのである。
 ネットCMの登場は、情報環境の変化の一つとしてテレビを客観的に捕らえるチャンスなのであり、今を逃すとテレビはさらに閉鎖的な縮小再生産過程に入るのではないか。もちろん、広告主も現在の過剰に抑制的であることから脱して、広告本来の<気散じ>の持つ意味を再考するであろうし、そのときマス媒体としてのテレビの有効性を見直すものと考えられる。表現=メッセージ性という点で、テレビはやはり強力なのである。

 先日の放送批評懇談会のシンポジゥムに企画委員として参画したが、そこに登壇したクライアント、エイジェンシー、ネットメディア関係者などの中堅スタッフの発言を聞きながら、彼らが敏感に情報環境の変化を認識していることを痛感した。凡百のテレビマンより創造的であり、知的でさえあった。放送は遅れている。だが、放送がメディアとして機能している以上、まだまだリカバーする可能性は大きい。経営戦略のレベルで状況の変化を認識することが、「不特定多数」を対象にするが故に最も厳しく情報責任を問われるという放送の特性と、それによる「信用(というフィクション?)の構築」というメディアとしての最大の優位性を継続するための直近の課題であろう。
 それにしても、広告とはまことに面白い刺激的な情報行為である。そこに、近代の秘密の一つを見る思いがする。

 読み返して、上手く整理されないままに書いていると思うが、今回はテークノートということで、そのままにしておくことにする。何度も、この問題に戻ることになるだろう。




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