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メディア・ノート
    Maekawa Memo
MM118.
[メディア研究とギョーカイ]
2009.3.15

 「実は、テレビがインターネットを畏怖するのは、私たちが『社会』をイメージしなくなることを予感してのことなのかもしれません」
 こういう文章に出会うと、「そう、実はそうなんだよナ」などと呟いてしまう。「テレビジョン・クライシス」(水島久光・せりか書房)を読んだ。民放連で、僕が委員長を仰せつかっている研究会に、水島さんに来て頂くことになったので、予め読むようにと事務局から渡されたのだった。

 情報分野を産業政策の対象として見るだけでは大事なことは見えてこないということは、このノートでも何度か書いてきた。前回も書いた。しかし、そうだとしても社会学的な、あるいは現代思想的な、情報社会論はあるが、それらをそのまま「ギョーカイ」の実態とつき合わせるのも容易ではない。水島さんは、代理店で仕事をしていた経験が生きているのだろう、メディアの世界に感覚的に通じているという印象がある。ただ、その反面、研究者として仕事をしたいという意識が強いせいか、引用文献がオーバフロー気味でテーマが曖昧になりがちで損をしている。もう少し骨太に水島論理を示して欲しいという気がした。
 が、それはともかく、僕の発想と共通する部分が多かったので、全体としては面白く読んだ。紹介されている文献から推察される興味の範囲も、もある程度似通っている。おかげでいくつかのことを発見したり、確認したりした。最初の一言もそうだ。
 「では私たちはいったい何に『情報』の存在を感じているのか-気がつけばそこに『機器』がある。そしてそのことに『安心』する。一部の人を除けば、これこそが『情報社会』のリアリティなのではないでしょうか」という指摘も、その一つだ。なるほどね。こうした見方は、メディア・コンタクトをキーワードとして『情報社会』にアプローチする水島さんの経験的かつ分析的観察結果なのだと思う。

 水島さんは、レジス・ドブレ(この人については、僕は名前しか知らない)を踏まえつつ「メディア圏」という概念が「それまでメディアの外にあったさまざまな組織や人間集団のダイナミズムが、メディアによって媒介される情報及びその流通形態に従って定型化、秩序化し、そのことを通じてメデイァを中心にした生活圏が形作られていくという現象」として捉えられている。これまで僕は、テレビの機能を次図のように概念化してきた。しかし、この図では「メディア圏」という社会的広がり、あるいは制度(法制度ではなく政治的・経済的・文化的システム構造)が取り込めていない。勉強になった。

テレビジョンを構成する「力学」

 また、テレビが形成してきた「メディア圏」の移行(解体?)、それこそがテレビの現在的=将来的テーマであり、「これらの厳しい状況は・・・かえって認識論的にはチャンスである」という。これも、僕がこの数年しばしば思っていることだ。別の言い方をすれば、「“戦後体制の確立にいかに奉仕するか”という政治的・経済的課題」を担わされたテレビが、歴史的な捉え返しを抜きにして、戦後体制の転換点に踏み込みつつある現在をどう認識するか、テレビが同時性と共時性により果たしてきた機能=20世紀型メディアが形成してきたメディア的/文化的構造とどういう関係にあるのか、ということの更なる論理化と<ギョーカイ>への投げ返しが必要なのである。
 例えば、「私性」の前景化が進行すればするほど、政治は国民国家型の意識空間を維持する役割をメディアに求めるであろうが、そのときメディアはどう振舞うのか。「表現の自由」と「劇場型政治」はどのように関係するのか、など。こうしたアプローチへの一つのアングルは、ウンベルト・エコーを援用しつつ「ネオTV」の特徴として「“テレビが、視聴者の手の届かないあちら側の情報を、こちらに伝達する”パレオTV的機能とは反対に、テレビがテレビによって作り出した『世界』を再帰的に参照する閉じた情報の流れを指します」という論点が示されているが、何故そうなったのかを「外部の情報環境」との関係だけではなく、内部の=制作者の意識的/無意識的構造としても捉え返すべきだろう。そこに、後で触れる研究者とギョーカイのコラボレーションの可能性がある。この部分を読みつつ、「メディアは事件の一部である」というボードリヤールの言葉を思い出した。

 その他、「『輻輳』『干渉』の場たるメディアの『「あたらしいかたち」を構想する力が『われわれ』に問われている」という認識は、メディアを「意味の伝達」という機能として限定的に捉えることへの批判であり、それはメディアを媒体として情報と分離して捉える経済論的政策への疑念につながる。この文脈の中で、コンテンツという言葉への抵抗・違和感が語られているが、これについても同感だ。
 また、「放送と通信の違いは、そのやりとりされる情報の創造を支援する装置と、情報を受容する人間との界面(インターフェイス)の二点において際立っていくようになる」という認識も、そのとおりであると思う。こうした点を自前の論理で掘り下げ、且つ分かりやすく書かれると、研究とギョーカイの接点が有効に機能するのではないだろうか。

 最後に、これも水島さんのキーワードである「選択と記憶」を駆使しつつ、<デジタル・アーカイブ>によるテレビの公共圏(公共性)を構築することが、デジタル時代のテレビの基本課題だという提唱をどう考えるか。アーカイブ化されることを想定した放送というのはそのとおりだが、リニアーでなければ成立しない「番組=編成行為」というのがあるはずで、それを「新しいかたち」として構想することも欠かせないのではないだろうか。それもまたアーカイブ化されるのであるが・・・。




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