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メディア・ノート
    Maekawa Memo
MM120.
[テレビジョンの構造転換-補・村木良彦のテレビ論について]
2009.4.15

 前回、村木さんのテレビ論を再考するためのメモを作ったのだけれど、一つ書き忘れたことがあった。村木さんのテレビ論についてぼくが知っていること(19701年前後)と、その後の村木さんの考えていたことの関係を知りたくて、テレビマンユニオンの若いスタッフによるロングインタビューを見せて頂いた。テレビマンユニオンのご好意に感謝。その中で、村木さんはハイビジョンのテーマとして「都市を記録する」ということを挙げている。村木さんが語るその意味を要約すれば、「人間の歴史の集積としての都市の景観を記録するために、ハイビジョンの優れた映像特性である<記録性>を評価したい。これによって、ハイビジョンは人間とテレビの関係性を新たなものにする可能性があった。その後のハイビジョンの展開は、それを裏切ることになる。それは、ハイビジョンを放送中心の技術改良に閉じ込めたからだ。その意味で、郵政省とNHKの責任は大きい」ということになる。
 そこから村木さんは、蓄積財としてのハイビジョン映像の位置づけと、ライブラリー(あるいは)アーカイブ)の可能性を語っている。そして、ハイビジョンとテレビジョンの相異を、放送されるための映像としてのテレビジョンと、記録・蓄積が先行し、その後で放送が(一つの媒体として)あるべきだというハイビジョン、に見ている。この考え方は、ロングインタビューの最後の部分で、プロダクションのあり方について「テレビ局から制作費を受け取るのではなく、自分たちがコストを負担しうる資金を集約するプロジェクト方式を実現しなければダメだ」と語っているが、その論理に繋がっている、と僕は思う。これは、日本のテレビ産業・映像産業の構造的な転換を意味する。当面、テレビの編成構造を前提とした制作構造は継続するであろうが、デジタルネットワークの時代の本当の革命的変化は、この構造転換に至る道なのだ。村木さんがハイビジョンに見た可能性は、いま正に本質的な問題として私たちの前にあり続けている。

 さて、このロングインタビューの「都市の記録」の部分で、「東京は没個性化しているのではないか」という対話があり、それについて村木さんは「それは日本の近代化の歪みであり、明治期に国家の視線によって東京がつくられたことが問題なのだ。国家のミニチュア版としての東京になってしまったからだ」という。つまり、東京という都市の視線が国家の視線と同化することで、コミュニティーとしての都市が形成できなかった(あるいは江戸期にあったコミュニティー性が崩壊させられた)、ということである。そして、「日本の近代については、司馬遼太郎よりも山田風太郎の認識の方が大切だ」とも語っている。風太郎信奉者のボクも、当然のことながら全く同感だ。村木さんが山田風太郎を読んでいたことは知らなかったのでチョッとビックリしたが、村木さんは風太郎をどのように読み込んでいたのだろうか、それも聞いてみたかった。
 かくして、「村木良彦のテレビ論」をまとめておくことは、テレビジョンの歴史を日本の近現代史として位置づけるために、またテレビジョンの可能性と不可能性を見極めるために、とても大事なことなのである。遺された資料の整理はどうなるのだろう。

 こうした、日本近代の<屈折>についての関心は、ぼくの場合「近代の超克」論に向かうのだが、そんなことを思っているときに、内田樹さんの「昭和のエートス」を読んだ。そこで内田さんは「政治原理は全体化する傾向にある。人権や民主主義が万国共通の価値であるように、帝国主義や強制収容所には国民的特徴はない。収奪や弾圧の仕方は時代を超え、歴史を超えて、みごとにどこでも一律である。だから、世界がどこでも似たようなものになることを本能的に厭う精神は必ずや『絶対精神の自己実現』の轍に踏みにじられたひとびとに一掬の涙を注ぐのである。敗者のあり方に『世界標準』は存在しないからである」(「日本人の社会と心理を知るための二〇冊」)と書いている。
 また、「たいせつな本」というアンケートの回答の中で、内田さんは幸徳秋水の「兆民先生・兆民先生行状記」」をとりあげて、「勝海舟に始まり、坂本竜馬、中江兆民を経て、幸徳秋水に至る『反逆の系譜』が日本的精神の一つの巨大な山脈をなしていたことが知られる。そして、その系譜が途絶してしまったことをわたしもまた『無窮の恨み』をもって悔いるのである」とも書いている(『無窮の恨み』は、「兆民先生」の序に書かれた中江兆民を悼む秋水の言葉)。この「系譜」について、内田さんは先の「日本人の社会と心理を知るための二〇冊」でも「(海舟、竜馬、兆民、秋水と続く『魂の師弟関係』の持つ)荒々しく感情豊かな反骨の系譜は、その後田中正造、堺利彦、荒畑寒村らを経由して日本の左翼の『王道』となるはずだった(そうならなかつたところに日本の左翼の不幸がある)」と重ねて書いている。

 この系譜の周縁に中江兆民と親交があったという頭山満、そして夫々の延長に大杉栄と北一輝を置くと、日本近代がアジアと世界にどう関わるべきだったかという問題が浮かんでくるはずだ。大杉栄は1885年生まれ、北一輝は1887年生まれの同時代人であり、いわゆる「明治人」ではないが、「明治人」の残した問題に過激に向き合ってしまった。そして、そこに残された問題を引き受けたのが竹内好であった。「問題」はそのまま今に残されている。

 近代がもたらした<進歩>と引き換えに、私たちは何を失ったのか、そのことを知ることで近代の意味を捉え返す時代に、いま私たちはいる。歴史の不可逆性を承知していればこそ、それが大事なのだ。敢えて短絡していえば、そこに「公共性」を考える契機がある。

 「春三月、縊り残され 花に舞う」
 前にも書いたが、幸徳秋水の刑死を獄中で知った大杉が、出獄後の春に読んだ句だ。なんとも凄絶な句だ。
今年の櫻も漸く散った。




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