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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No123.
[「知の支配/知の共有/知の商品化」
-グーグルの電子図書館について考えた-]
2009.6.1

 「売れない学術書の著者が集まりグーグル電子図書館への対応を議論する会」(東洋大学 ICPF:情報政策フォーラム/山田肇教授企画)に参加した。グーグルが世界中の図書館の出版物をデジタル化して検索可能にしようとしていることは、色々と話題になっている。
 グーグルの「電子図書館」(*1)については、アメリカで「作家協会」と「全米出版協会」の訴えに対して、グーグルが得た収入(*2)から一定の配分(*3)を著作者に支払う、などの「和解案」が示されたのだが、その和解案は日本の著作者をも含むも(*4,*5)のであり、意思表示をしないとそれを容認するものと見做されると(*6)いうことから、日本の著作者団体などが抗議している、というのがごく大まかな状況だという。

以下は、当日の城所岩生国際大学教授の資料などを基に作成
*1. グーグルのブック検索は、出版社が提供する「パートナープログラム」と、図書館が提供する「図書館プロジェクト」があり、アメリカの上記団体が訴えたのは後者。
*2. グーグルは広告を挿入することが出来る。この広告費が収入になるものと考えられる。
*3. 収入の37%がグーグル、63%が著作者。それとは別に、既に許諾を得ずにデジタル化した書籍には解決一時金を支払う。
*4. 「アメリカ国内で通常の流通経路で入手出来ない出版物=絶版」と認定されれば、グーグルはこれを利用する権利を有することになる。日本の出版物の多くはこれに該当すると考えられる。
*5. (1)アメリカでの起こされた訴訟は「集団訴訟」であり、原告は個別の委任を受けなくても全員を代表でき、判決の効果も全員に及ぶ制度。(2)日本、アメリカともベルヌ条約に加盟しているので、一方の国の著作権者に認められる権利と同等のものが他方の国でも認められる。今回の和解案が日本の著作者も含むとされるのは、この関係による。
*6. 「ノーといわなければイェスと見做す(オプトアウト)」という意思確認の手段。

 以上は私自身のための頭の整理である。
 さて、著作権の世界は伏魔殿のようなところがあって、素人にはなかなか分からないのだが、「知の世界支配」のような展開はそれなりに気になる。まして「売れない学術書の著者が・・・」となれば、何か大胆な議論があるのではないかと思って出かけてみた。大胆な議論とは、例えば「抗議の声を上げているのは『売れている著者』たちであって、『売れない著者』であるわれわれは、グーグルをとおして広く著作が目に触れられることを歓迎する」というようなことである。
 しかし、やっぱりそういうことではなかった。というのは、今回の和解案について、出版社によっては「和解案を不当だが、その対応については一任されたし」との文書を著者に送ったところもあり、「それはやっぱりおかしいでしょ」ということが背景にあったようだ。そこで、一体なんでこうなったのか、何が問題なのか、どうすればよいのか、という議論になった。城所氏は、訴訟というのはコストも含め容易ではないので、アメリカ国内だけでなく各国と連携して「異議申立て」を行い、裁判所が「和解案」を許可しないように働きかける、という方向を示唆していた。そのためには、「売れない著者だからこそ、自分(たち)で意思表示することが大事」ということになる。尤もである。・・・が、国内の著作者や関係団体が統一した対応をするには時間がかかるだろうし、選択が一致するかどうかも分からない。そうだとすると、「売れている著作者」の突出した行動が先行することも必要だろう。最大公約数を求めるより先駆的行動を、というのは常に政治的行為のありうべき形である。

というような議論を聞きながら思ったことは、次のようなことである。
(1) (当日の意見にも見られたように)国内における著作のデジタル・データ化を早急に整備するべきだ。現在は、デジタル・データ化されても、当該図書館施設内の検索に限定されているという。
(2) その場合、現行著作権制度で認められる利用の範囲について、アメリカにおけるいわゆるフェアユースの概念との関係を検討する必要があるのではないか。ベルヌ条約のように、国際関係の中で著作権が扱われるルールが益々必要になるであろうが、その際に自国の制度の合理性に説得力を持たせるためにも、共通性と個別性を明確にしたほうが良い。
(3) 「知」とは、常に原則的に共有化されるべきものであろう。どんなに優れた知的成果も人類の歴史的叡智と無縁なものはない。とはいえ、その成果物を成果物たらしめた行為は確かに存在するのであるから、それをどう評価するかという問題はもちろん重要だ。それは通常、対価(財産権)と名誉(人格権)として示される。しかし、何が基本であるかといえば、どうすれはその成果が人々に還元されるかということであって、その逆ではない。
(4) 「述べてつくらず」という論語の言葉を引きながら、「いまから2500年前に孔子がそう言って以来、近代になるまで、作者たちは自分の作物は『自分発のもの』ではなく、『先行世代から継承し、次代に贈るもの』とみなしてきた。こちらの方が多分人類史的には標準的な考え方だろう。」と語ったのは内田樹さんだった(毎日新聞「水脈」2006.10.4.『昭和のエートス』所収)。
(5) グーグルの行為(=ビジネス)は、「『知』の人々への還元」に当るだろうか。現時点で、グーグルが進めようとしている蓄積・検索システムに匹敵するものがないとすれば、それなりの利用者はいるだろうし、恩恵に浴する研究者もいるだろう。
(6) しかし、私企業がビジネスとして行うとすれば、そこに適正な市場が構成されるべきだろうが、果たしてどうか。競争が成立しにくい市場というのはある。例えば、日本の通信衛星市場は結局1社に淘汰されてしまった。出版物のデジタル・データ化もそのような市場ではないだろうか。後発の参入者は相当のハンディキャップケースを強いられるであろう。
(7) では、そこに規制が成立するだろうか。経済的規制(例えば、独禁法)なのか著作権に関する国際的条約なのだろうか。前者は、アメリカ企業である以上、アメリカ政府によるものだと考えられるが、現実はどうなのか。
(8) 著作物(知的成果物)の公共的利用を、私企業が独占的に支配するということは認められるのだろうか。その正当性はどこにあるのだろう。公共性は市場によって供給される、という考え方があるが、この場合それに該当するのだろうか。ひどく疑わしいと思うのだが、そう判断するための論理的根拠は何だろう。
(9) グーグルの行為は、資本の国際化や大企業による世界市場の制覇と同じなのか、それともどこかが違うのか。
(10) 直感的に思うことは、「知の帝国」」は「知の帝国主義(=覇権主義)」と通底していないだろうか、ということだ。

 デジタルとネットワークの時代は、実に様々の且つ根源的問題を登場させている。素人の手に負える問題ではないともいえるが、専門家に任せればよいというわけにもいかない。私たちは、いまそういう時代にいるのである。

 と、ここまで書いたところで、「グーグル問題・著作権者に利益」という記事を読んだ(5.28.朝日新聞)。それによると、この問題で来日した全米作家協会は、日本文芸家協会などに対して「和解案」を説明し、これを受けた日本文芸家協会は『協力したい』(三田誠広副理事長)と「歩み寄る姿勢」を示したという。これについて全米作家協会は記者団に、「和解案は著作権者に利益をもたらすもの」であり「『日本の著作者から意的な反応があった』と強調し」、「書籍がネットで利用されるケースが増えることで、『絶版書に新しい商業的生命が吹き込める。この和解案は喜ばしいものと考える』と訴えた」と伝えられている。
 フーン、そうか。グーグルの説明不足への批判を、作家がリカバーしたという構図に見える。しかし、メリットがあること(知の商品化)と「知」の共有化の問題とは、深く関わるとはいえ同一ではないと思うのだが、そのことについて、報道では何も伝えられていない(註:翌29日の朝日に解説記事が出ている)。著作者が考えなければならないのは、その関係性であるはずだ。

 ところで、東洋大学のある文京区白山は、私が卒業した高校から南に少し下ったところにある。白山を過ぎると、急坂になって本郷台地が終わる。いろんな事情で高校時代から下宿生活をしていたこともあって、下宿探しにその一体を歩いたことも何度かあった。「三丁目の夕日」的光景だが、都電が軋んだ音を立てながら坂を上り下りしていた。いま、高校のあった駕町はもちろん、曙町や指ヶ谷などという地名は既にない。生活が構成していた固有の“場”は、区画というただの無機質な空間になってしまった。地名とは、生活者の「知(知恵)」の集積だとすれば、行政上の理由による地名の喪失は、公権力による「知」の収奪といえるのではないか。知の成果は必ずしも、文字や映像に記録されたものとは限らない。




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