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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No124.
[番組評価とローカル局の原点]
-二つの贈賞式に参加した-
2009.6.15

 放送人の会の「放送人グランプリ」と放送批評懇談会の「ギャラクシー賞」の二つの贈賞式に出席した。
 「放送人グランプリ」は放送人による放送人のための作品評価という趣旨で、今年が8回目、これから歴史を作っていくであろう。審査に当った堀川とんこうさんの言葉によれば、「この賞は応募も推薦もなく、受賞者にとっては突然『賞』がやってくるという仕組がユニークだ」ということになる。
 これに対して「ギャラクシー賞」は第46回(これは、ほぼ僕の放送に関わっている期間と同じ)で関係者のみならず広く知られた存在だ。入賞作品も各部門を合わせると40作品近く、奨励賞は約100作品である。
 規模や趣旨は違うが、どちらも、放送番組への“批評”である。放送人の会は、ギョーカイ内部の評価だが、それも批評であろう。批評とは、アレコレとあげつらったりランク付けをしたりすることではもちろんない。批評が成立しなければ、文化は成長しない。その意味で、批評とは主体的な行為なのである。また、批評は第三者によるものだけでなく、内部の目線によって成立することも大切だ。そうであるとして、それにしても文学、映画、演劇などのジャンルに比べると放送批評というものがどのように成立しているのかが見え難い。見え難いというよりは、果たして成立しているのかということが問題だ。批評と作品の相互関係が未成熟なのではないか。その上、放送番組という形式は、放送メディアと切り離されて存在しない、つまり番組批評とメディア批評は不可分なのである。ここにも、放送批評が成立しているのか、あるいはしていないのかという曖昧さがある。放送批評が有効に機能すれば、それはメディア論と現場そして視聴者を繋ぐ貴重な「環」になるはずだ。
 資本主義においては、あらゆる知的成果物は商品と作品の二重構造を強いられる。一方では、視聴率というのは視聴者の一つの評価軸として成立しているし、それは放送のメディア構造を構成する重要なファクターである。しかし、他方では同時にその数字の意味に番組の時代性やメッセージのあり方、そして放送というメディア行為の意味などを摘出するところに放送批評の意味があるのであって、それは内部におけるものであろうと、外部のものであろうとかまわないはずだ。「放送人グランプリ」や「ギャラクシー賞」の他にも放送番組を評価する企画はある。「ATP賞」や「地方の時代映像祭」など。<内>であれ<外>であれ、それぞれがどのような目線で批評=評価するのか、夫々の批評の主体性があるはずだ。その主体性が、放送という<政治性と無縁には存在し得ない表現行為>の自立を形成するのである。

 二つの贈賞の場で感じたもうひとつのことは、ローカル局の番組制作についてである。「放送人グランプリ」では特別賞に南日本放送、奨励賞に信越放送、FM福岡の制作者が選ばれた。また「ギャラクシー賞」では、テレビ部門の優秀賞に東海テレビ、毎日放送が、ラジオ部門では大賞をFM福岡、優秀賞に琉球放送が受賞、報道活動部門では大賞が日本海テレビジョン、優秀賞が朝日放送と札幌テレビ放送に贈られた。選奨レベルではローカル局制作がずらりと並んでいる。もちろん「放送人グランプリ」のグランプリや特別賞、また「ギャラクシー賞」のそれぞれの部門の大賞あるいは優秀賞、そして特別賞にキー局やNHKの番組も選ばれている。しかし、いかに局の数でローカルが多いとはいえ、印象としてはローカル局大健闘という感じだ。そう考えると、NHKはともかくキー局のドキュメンタリーは質も量も衰退しているのではないか。テレビドキュメンタリーはローカル局によって支えられている感さえある。もちろん、ローカルではドラマや歌番を制作するのはほとんど不可能だから、つくるとすればドキュメンタリーしかないというのも確かである。
 例えばレイヤー型法体系を巡る議論の中などで「ローカル局の自社制作比率は10%程度というのはいかにも低すぎる」という批判があった。ネット編成に頼りすぎて、経営努力の手を抜き、自社制作をサボっているという意味だ。経営努力が足りないという点はその通りの部分もあるだろう。だが、その地域の日々の情報の取材・編集・放送について採算性をも含めて考えたときに,どれほどの情報を編成できるか、その明確な解はない。放送に限らず東京と地方の<力>の差は10対1より大きいという見方もある。まして、ただでさえ広告費のおよそ80%が東阪名に投下される構造の中で、経済環境は悪化し、デジタル投資負担を背負いながら番組を制作することは容易ではない。
 日々の情報の集約とは別に、その地域で記録し伝えるべきテーマを番組化することにローカル局の存在理由があるとすれば、どんなに経費削減が求められるとしても、この存在理由を放棄してはならない。「年に1本でも、その番組を作るために放送局で仕事をしている人間がいる。このことを抜きにローカル局の番組制作のあり方を議論するわけにはいかない」という趣旨を、先日のNHK文研のシンポジゥムでも発言した。これもしばしばいうことだが、「経営の安定なくして言論の自由なし」というが、それは言論が経営の下位概念であることを意味しない。この点で、「存在理由を見失っていないか」という自問が必要なのは、キーもローカルも同じである。しかし、ローカル局が1本のドキュメンタリーを制作することの切実さをキー局は知るべきだし、ローカル局経営者はそれを経営哲学として明確にする必要があるのだ。

 これまで、このノートで「テレビは時間のメディアである」といってきたし、それは全くその通りなのだが、それと同時にテレビジョンの記録性についてあらためて考えたいと思う。「放送人グランプリ」と「ギャラクシー賞」の二つの贈賞式はそのことを物語っていたし、当然のことながら放送における批評の意味もそこにある。繰り返すが、「否応なく政治的であることと無縁でありえない放送という行為」の自立性を明確にするために、「放送批評という行為」もまたその存在理由を問われているのである。

 最後に、「ギャラクシー賞」のCM部門の委員長が『バブル以後、明日のブランドより今日の売上げ、というCMばかりになってしまった。いまこそ、テレビ・ラジオの力を示して欲しい』とコメントした。 「力」はメディア特性を再確認することから始まる。タレント頼みの時代は終わった。そのことを自覚しないと『客=視聴者』に置いていかれる、と直感した。


  * 「放送人グランプリ2009」受賞者
グランプリ 塩田 純(チーフプロデューサー・NHK制作局文化・福祉番組部)
  「神聖喜劇ふたたび〜作家・大西巨人の闘い」、「BC級戦犯 獄窓からの声」
など、ETV特集、NHKスペシャル
特別賞 中村 敏夫(プロデューサー・フジクリエイティブコーポレーション)
  ドラマ「風のガーデン」、「ありふれた奇跡」
山縣 由美子(キャスター/ディレクター・南日本放送)
  ドキュメンタリー「やねだん〜人口300人、ボーナスが出る集落」
奨励賞 大塚 和彦(ディレクター・FM福岡)
  ドラマ「聞こえない声〜有罪と無罪」
手塚 孝典(ディレクター・信越放送制作部)
  子育てスペシャル「福太郎!〜寺町の大きな家族」
     
  * 「ギャラクシー賞」受賞一覧は、「放送批評懇談会」ホームページ参照
http://www.houkon.jp/



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