TBS-MRI TBSメディア総合研究所
home
メディア・ノート
    Maekawa Memo
No131.
[“脱亜入欧”というアポリア]
-大連・瀋陽・長春紀行-
2009.10.1

 中国東北地区、いわゆる旧満州(大連・瀋陽・長春)に行ってきた。
 日本が近代化の過程で何をしてきたのか、そこで遺したものは何だったのか、一度は見たいと思っていたのだが、やっと実現した。全くの個人的な海外旅行は初めてだった。同行したのは、TBSの先輩でスキー仲間の村上さんで、村上さんは昭和20年を挟んだ1年間、小学校6年から中学1年まで、奉天(現在の瀋陽)にいた経験がある。いろんな意味で、なかなか良い旅行だった。

(1)日本の近代

(大連駅 上野駅がモデル)

 日本支配時代の建造物は維持され現在も使用されているものが多いが、そこには「日帝侵略」を意味する表記があり、また満州国関係の史跡にはあちこちに「偽満」という表示がある。
 そうであるとして、若し歴史的諸条件のうちある部分を伏せてしまえば(もちろんそんなことはありえないのだが)、旧満州に残された建築は、日本のモダンというものが目指したのは何かを示しているように思えた(満鉄特急アジアが典型であるように)。大連、瀋陽の大和ホテルの概観・内装、大連満鉄ビル、旧奉天北駅、など。一方、同じ“遺産”でも、旧関東軍司令部や旧国務院のような建築は、ぼくには醜悪の感じを抱かせた。その違いは、後述するモダンを巡る二つのベクトルの違いであり、後者は建築表現と政治との粗野な関係のではないだろうかという連想に繋がる。

 
大連大和ホテル
(ホテル内部の写真は
ココをクリック)
  大連大和ホテル前
左手は満州時代の警察・銀行など
 
旧関東軍司令部 現在人民解放軍・長春
(満州政府関係の建築写真はココをクリック)
大連満鉄ビル
現在鉄道関係が使用
   

 こうした連想は、もちろん様々に実証的な学問・研究として明らかにされているであろうけれど、ここでは個人的な思いとしてノートしておく。それが、旅の直後の率直な思いだからだ。そうしたことの延長として、例えば満鉄の存在は、当時の近代主義の一つのあり方、即ち絶対天皇制の下における近代化の追及であったのだろう。鉄道、道路、主要な公共機関の建築、電気・ガス・上下水道などのインフラの構築は、都市の創造というテーマに見合って進められたのだ。大連、瀋陽、長春の原型は、それによって形作られている部分が確かに見て取れる。(関連写真はココをクリック)

旧満映・現在長春映画製作所
甘粕正彦も李香欄も
ここを歩いて通った。

 だが、だからといって軍事力を背景に他国でこうした作業が進められたことを「良いこともしたのだ」と評価することは、まさに「歴史的」に認められてはならない。やはり、歴史というのは総体であって、「ある部分を伏せて」ということは成立しないのである。
 例えば、203高地(関連写真はココをクリック)に行って思うのは、中国人から見れば、何故ここで日本とロシアが戦争するのかと思うのは当然だということだった。東鶏冠(203高地近くの激戦地)の記念碑の前で記念写真を撮る中国人のアベックや偽満皇宮(満州国皇居)を見学する小学生たちが何をどう思っているかはいざ知らず、その「何故」を双方が問うことが大事なのだと思う。少なくとも、私たちは「日帝侵略」とくくられることを承知したうえで、なおそこにある<近代化とは何か>という問題と向き合うべきであろう。人は時代を超えられないのである。

(2)歴史の“if”

 ところで、旧満州紀行と平行して思っていたことは、例えば昭和前期の最大の政治課題であった日中戦争の早期解決や、あるいは日米戦争の回避などの「和平工作」が成立していたら、太平洋戦争の膨大な死者や破壊は避けえたという認識についてである。それは望ましい選択であり、そうであれば「あの愚かな戦争」は避けえたということになる。
 ここからは全く想像力の世界になるのだが、若しそうした「和平」が成立していたら、21世紀の私たちは、欽定憲法の下で絶対天皇制の政治体制、強大な陸海軍と徴兵制、さすがに思想警察は廃止されているかもしれないが、圧倒的なヒエラルキー社会に生きているのではないか。その場合、日本は当然満州への影響力を行使し、朝鮮半島、台湾、北方領土、あるいは南洋諸島を支配下においていたであろう。そうだとすれば、ある時期にそれらのいくつか地域は、アメリカにおけるベトナム戦争やソ連におけるアフガン侵攻と同じ事態が起こりえたであろうし、その場合にそれにより米・ソが国内政治に受けたインパクトと同じインパクトをやはり受けていたであろう。だが、そうであっても、国内の権力構造は維持されていたと考えられるのだ。それは、敗戦時の国家の最大テーマが国体の維持だったことからも明らかだ。
 この“if”が良かったかと問われれば、良くないと答えざるを得ない。それが現在を考える原点ではないのだろうか。旧中産階級の家に生まれた私は、この“if”の中である程度の、それなりに居心地の良い生活環境にいたであろうし、その時はそうした状況を当然のように「良し」としたであろうが、それでも今の私はそうした想定を認める気にはならない。ここでも、人間は歴史を超えられない、と思うのだ。

(3)脱亜入欧

 いま、新政権は「日米対等」「アジア重視」というメッセージを発信しようとしている。これは、55年体制からの脱却の一つだということだろう。だが、実はこの政策課題はこの150年の間、日本が抱えてきた宿痾のようなあるいは呪縛ともいうべきアポリアの延長にある。「最もすぐれた後発の欧米型近代」か、それとも「独自の(アジア型)近代化」という選択は、征韓論から東アジア共同体論の幅で揺れ動いてきた。
 満州紀行で思ったことの一つは、旧満州の建造物や偽満皇宮博物院の溥儀の存在から推測されるように、あるいは「近代の超克」が典型であるように、非西欧型近代という選択とその破綻である。

満州国仮皇居・皇帝溥儀は盗聴をおそれて、
日本が立てる本皇居には入らないといっていた。
本皇居は日本の敗戦・満州国消滅により完成せず。
手前には、江沢民による「9.18.(満州事変)を忘れるな」の碑
小学生が見学していた。

溥儀執務室
(関連写真はココをクリック)

 55年体制とは、その真逆のベクトルが生んだものであったが、それはベルリンの壁崩壊による冷戦構造解体とアメリカ一極集中、そしてそのアンチテーゼとしての多極化流動化に対応出来ずに、遅すぎた終焉を迎えた。いま、対米対等・アジア重視というのは、当然といえば当然だが、ではそこにどのような構想力があるかといえばまことに不透明である。無理もない。150年解き明かせない難問に、そう容易な答えがあろうはずもない。肝要なことは、それが150年の、そしてこれからも続くであろうアポリアだということを知ることである。その意味で、私たちは今なお「脱亜入欧」という問いの前にいるのである。そこに、ナショナリズムの陥穽があるとしても、それは避けてはならない問いなのだ。

(4)満州の敗戦

旧奉天市敷島区協和街付近

 同行の村上さんは、昭和20年6月、敗戦直前に奉天に行った。満州国奉天税関長だった父親が、内地よりは生活物資に恵まれているという判断で一家を呼んだのだという。8月にソ連侵攻。敗戦後、奉天は最初はソ連軍が占拠。税関長官舎はソ連軍将校用として接収。官舎は日本人街ではない地区だったので、幸い略奪・暴行には逢わなかった。ソ連軍撤収後国民党軍が支配。国内戦で共産党軍(八路軍)が優勢となり入れ替わるが、その後再び国民党軍が進出して来たという。その時点での政治的・軍事的力関係が、満州(中国東北部)の情勢にストレートに反映していた。軍規は八路軍が圧倒的にすぐれていたそうだ。
 敗戦を挟んで、大日本帝国と満州国の紙幣、ソ連軍、国民党軍、八路軍の軍票が入り混じった経済生活が続く。村上少年は国家が如何にあてにならないものかを知る。家では父親がソ連軍将校に和式トイレの使い方を教えていたという。

 村上さんは、満州経験に思い入れ(憧憬やロマン)の強い人間と一緒に行くのはイヤだという。だから、60余年を経た奉天(瀋陽)だった。12歳の記憶というのは、経験の強烈さもあってのことだろう、随分確かなものだった。街路、建物、そこでの経験などを語ってくれた。

(5)メディア

 55年体制からの転換は、今のところ好意的に受け止められているようだ。だが、その意味するものは何かということを考え、取材し、表現・伝達することがメディアの仕事である。そのためには時事解説を超えた日本近代の総体をレビューする思考の軸が必要であろう。今回の私のメモで触れたことは、より専門的な研究が既に行われているのだから、そうした成果・実績をジャーナリズムとして取り込むために格闘すべきであろう。それが55年体制の終焉を経験したメディアが時代と向き合うということであり、「知る権利」に応えるという意味での公共性ではあるまいか。これはニュースのことだけを言っているのではない。メディアにおいて、エンタテイメントもジャーナリズムなのである。

(6)旅

 とはいえ、大連・瀋陽・長春という旅の間、こんなことばかり考えていたわけではない。大連の星海公園はとても気持ちの良い公園だったし、瀋陽故宮は北京の故宮よりずっと小規模だがなんとなく素朴で温かみがあった(関連写真はココをクリック)。何よりも良かったのは食事が全て美味しかったことだった。東北料理とはいかなるものかと思っていたが、大連の海鮮、瀋陽の餃子、長春の火鍋、どこでも必ず出てくるスープ類など大変結構で、村上さんと「“中国東北食べ歩き”っていう企画はアリだね」、などといいながら楽しんだ。地元庶民が行く店が多かったのもとても良かった。

 
大連星海公園 市制100年記念
0歳から100歳の足跡が刻まれている
  老辺餃
哈爾浜行新幹線
日本の初期の新幹線の感じ

 また、都市間の移動は全て列車だったが、駅の喧騒、新幹線体験(日本が技術協力?)、車内の有様、など面白かった(関連写真はココをクリック)。あるいは、「ここは撮影禁止です。撮影が見つかると公安が来ます」「中国の公安は怖いよね」「日本の警察は親切でした。道が分からないときは、探しているところまで連れてってくれました」などというガイドとの会話もあった。チェックアウトの時に、バーの利用も国際電話料金もついてないので、こちらから「払うよ」といったら、金は受け取っても領収書を寄こさないフロント係りもいた。
 宅急便、駅弁サービス、公共スペースのバリアフリー化、そしてウォシュレットの普及など、日本のシステムが役立つだろう分野はまだまだ色々あるという話を何度もした。

 それもこれも、なかなか面白かった。

 戻ってきて、読みかけていた「許されざる者」(辻原登・毎日新聞社)を読み終えた。とても面白く、かつ気持ちの良い長編小説だったが、時代は日露戦争前後。そこに石光真清が登場する。石光真清はロシア問題専門の軍人で、満州やシベリアを舞台に諜報活動に長く関わった。久々に「石光真清の手記」四巻(城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために)を読み返してみようかと思っている。

仮皇居階段踊り場の窓
外は初秋の高い空


TBS Media Research Institute Inc.