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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No133.
[石光真清の手記/日本の近現代史の多層性]
2009.11.1

 メディアノートNo131.の旧満州(大連・瀋陽・長春)紀行の最後に、「石光真清の手記」(中公文庫・1978年)を再読すると書いた。改めて読み通してみて、稀代の名著だと感嘆した。「城下の人」「嚝野の花」「望郷の歌」「誰のために」の四巻は、一人の人間に投影された日本の近代前半そのものである。手記であって日記ではない。後日、記録と記憶で構成されたものであろう。註によれば、嗣子石光真人氏が遺稿とともに残された資料と、関係者からの聴取により編纂したが、書き加え等の手を加えていないという。
 少年時代、熊本城下で育った石光真清は、神風連の乱、西南戦争の渦中に身をおき、明治維新における近代化のプロセスの屈折を直接経験する。後に軍人となり、「大津事件(津田巡査のロシア皇太子ニコライ襲撃)」に近衛連隊将校として遭遇。日清戦争従軍後、台湾平定のための出兵に加わる。三国干渉による遼東半島返還などの国際関係の中でロシア問題が最大の国家的懸案と考え、軍籍を離れてロシア極東部から中国東北部(旧満州)の情勢について諜報活動を兼ねて実地の調査研究に従事。当時、ロシアは東清鉄道建設や大連開発など、中国東北部(満州)を勢力圏とするべく進出中であり、アムール河(黒龍江)を挟んでの露清対立は圧倒的にロシアが優勢だった。
 この頃は、東清鉄道は一部区間しか通じていず、その支線として想定されていた南満州鉄道はもちろんなかったので、例えばウラジオストックとハルビンの往復は原野、森林を通り、松花江を利用するなど大変な行程だった。ハルビンで洗濯屋、写真館を経営しつつ満州の政治・軍事情勢を観察するのだが、その間に馬賊との交流やその馬賊に身を投じた日本女性との出逢いなど(それも三人!)、こんなことってホントにあるんだと絶句。まことに「卷措く能わざる」とはこれを言うのかというほど面白い。30年前、最初に読んだときも確かに一気に読んだのだが、これほど面白かったと思ったのだろうか。再読とはやはり意味のあることなのだ。
 再び軍人として日露戦争に従軍、奉天大会戦など転戦。この間、著者が軍人であるからというのではなく、明治期の人々が対ロシアにどれほどの緊張感を持っていたかということが実に良く分かる。天皇制イデオロギーの効用もあっただろうが、しかし不平等条約下で大国清と戦争し、続いてロシアと戦うことへの恐怖に近い感情、ここで負けるとロシアは朝鮮半島に進出し日本本土が危ない、そういう危機感が広くあったことが感じられる。ついでに、日露戦争戦没者慰霊の法要で石光真清が読む祭文を、従軍軍医部長森林太郎(鴎外)が代筆した話も登場するが、これが辻原登の「許されざる者」にそのまま出てくる。
 日露戦争後、再度軍を離れて満州で事業を始めるがすべて上手くいかず、ついに海賊貿易に加わるもののこれも失敗し、尾羽打ち枯らして帰国。ところが、ロシア革命勃発によりシベリア情勢が不安定となって、またもや軍の要請により大陸に渡り辺境の都市の革命・反革命の修羅場を経験し、日本軍のシベリア出兵を支援することになる。その間、シベリアという辺境におけるボルシェビキ・赤軍とコサックなど白軍の攻防はまことにスリリングであり、市民の動揺は激しい。そこに日本人義勇軍や「石光機関」が絡んで状況は混沌、「ロシアを震撼させた十日間」(ジョン・リード)のシベリア版を読む思いだ。著者も触れているのだが、日清・日露の両戦役で極東の弱小国がアジアの強国になることによる変化が、シベリアそして満州の地に波及していることが読み取れる。緊張感の喪失と優越性の増長、1945年に至る道はほぼこの時期に固まったといえるのだろう。
 このように、日本近代の形成過程が一人の人間の「現場」の経験に投影されている。そうした人間は他にもいるだろうが、その典型として「石光真清」の手記はある。それは単なる記録ではなく、もちろん創作ではない。石光真清の行動原理は「御奉公」なのだが、そうした思想信条はどうであれ、やはりこれは文学だ、そう思う。石光真清が残した資料に「諜報記」があり「嚝野の花」はそれを基にしているとされているが、「諜報記」の全容はどのようにものなのだろう。未刊の部分があるとすれば、そこにも日本近現代史の秘密が残されているように思われるのだが、どうなのだろう。

 「石光真清の手記」を知ったのは、谷川雁の「『城下の人』覚え書」(「思想の科学」1959年・「工作者宣言」所収)を読んだからだ。手元にある「工作者宣言」の表紙裏には、1963年(僕は大学3年だった)に早稲田・文献堂で購入とメモされている。文献堂は社会科学系の古書店で、いわゆる古書だけでなく、比較的新しい本、特に吉本隆明、埴谷雄高、花田清輝、澁澤龍彦、などの思想家たちの新刊を、あまり時間をおかずに定価の30円引きとか50円引きで売っていて、金のない学生には有難い本屋だった。今はもうない。その頃、谷川雁に僕は相当イカレテいたのだった。
 「『城下の人』覚え書」で谷川雁は「一冊の書物から受ける反応が、こんなにも毛穴を刺してくるのは私にとってはめずらしい」と書き出している(谷川雁は熊本県人であり、祖父か西南戦役に「賊軍」として参加している)。そして、石光真清の父と自分の祖父とを重ね合わせつつ「歴史がするどい回転ぶりを示している時には、存在の一つの側面だけが強く作用する瞬間があるものだ。そしてしばしば比較的に中途半端な存在がその局面の最前列におしだされることがある。そのとき思いがけない栄光を拾う者もあれば、水底に沈殿してしまう者もある。沈殿した者たちは歴史の体現者として、光栄を得た者よりかえって鮮やかに歴史を反映する。日本の現代史にはそのような瞬間が二度訪れた。最初は西南戦争までの十数年であり、その後は今次大戦である。しかも奇妙なことに、凝縮した密度を持つ瞬間はその後の長い時間に生起する諸現象を解く鍵を与えるばかりではなく、すでにその短い時間の体内でそれらの現象を実験してしまっている形跡がある」と書く。そこから、「(西南戦争において)何がいったい進歩なのか。この基本的動揺はほとんど思想の生産性を打ち消してしまうほどの狂暴さでそのごの日本を貫いた」という視点から日本の近代を読み解き、「昭和の論争史はことごとく日本現代文明の構造的認識にその根を持っているのは偶然ではない。西南戦争は決して簡単に権力=進歩対反権力=保守の闘争ではない。その渦の中になお文明の進歩に関する根本的な課題を埋蔵しているのである」とこの評論の最後を締めくくっている。

 こんな風に批評された本を読まないわけには行かないと思ったのだが、そのとき(1963年)には、龍星閣という出版社が発行(1958〜9年)した単行本を手に入れられなかった。新刊本は既に書店になく、古書のネット販売などという仕組みなどなかった。それに、単行本4冊は高価だったこともあっただろう。だから、1984年に文庫版を見つけた時は、「オオッ、ここにあったか」という思いで四冊まとめて買ったのだった。
 谷川雁は第一巻の「城下の人」について批評したのだが、「沈殿した者たちは歴史の体現者として、光栄を得た者よりかえって鮮やかに歴史を反映する」とは、石光真清の手記そのものについてもいえるだろう。石光真清が最も激しく生きた日露戦争前後の時代は、「するどい転回点」を示した時期ではなかったかもしれないが、そこには国家体制を確立しようとした日本にとって、「すでにその短い時間の体内でそれらの現象を実験してしまつている形跡がある」のであって、(繰り返すが)その後の方向はこの時期にほぼ選択されたと考えられる。ここから、昭和の「近代の超克」論へは、大正-昭和のモダニズムをブレイクとしてほんの数歩の隔たりである。
 「近代の超克」論には二つの側面があり、一つは西欧近代の「否定と乗り越え」であり、もう一つは西欧近代の改革・修正だという解説を読んだことがある。満鉄に代表される植民地経営は後者であり、そして日本ロマン派は前者なのか。では、「満州」とはなんだったのか。それにしても、例えば「日本人はそれでも『戦争』を選んだ」(加藤陽子)でもいい、あるいはあまたある近現代史のどれかと「石光真清の手記」を併読すれば、歴史がいかに多層性的であるかが分かるだろう。石光真清の手記を読み返しつつ、日本の近現代史の「場」を確かめるために、もう一度旧満州を訪れてみたいと思った。

 もう一つ思い出したのは、NHKのラジオだったと思うが、この「石光真清の手記」を森繁久弥と加藤道子(だっただろうか)の二人で朗読していたという記憶がある。55年体制の終焉という「いま」の状況においてこそ、日本近代の検証という意味でテレビあるいはラジオの番組として、制作手法はかなり高度なレベルを要求されるだろうが、企画化してみる価値があるように思った。

 今回は、ほとんど紹介と引用になってしまった。名著と一級の批評を前にしてこれ以上のことを書くには、もう少し「力」をつける必要がありそうだ。

 ここまで書いたところで、平岡正明「志ん生的、文楽的」(講談社・2006年)を読んでいて「満州における志ん生、圓正、森繁」に出逢った。ついでにこれも引用しておこう。
「遺書としての文学があるならば(武田泰淳『司馬遷 史記の世界』、花田清輝『復興期の精神』、本田秋五『「戦争と平和」論』などをさす)、遺書としての落語があるはずだ。噺家として上り坂にあった志ん生と圓正が、自分たちはもうじき死ぬかもしれない植民地満州の首都新京の夜、若き森繁を司会者として甘粕グループの放送局員たちを前にくりひろげた艶笑落語バトルは白熱的なものであり・・・」「死ぬかもしれないときに落語をやるのが落語家であり、ジャズをやるのがジャズマンである。この夜のセッションは、一国の存亡が間近に迫った場でのプロの噺家による滑稽譚だ。これを幇間芸というなら、ベルリン空爆下、地下壕でヒットラーの誕生日にフルトヴェングラーがベルリン交響楽団を振ったベートーヴェン交響楽も幇間芸だ」
 敢えて短絡的に言うならば、「進歩とは何か」という問いに対する一つの答えが、ここにあるように思える。

 長春(新京)に行ったとき、満映は訪ねたが新京放送局が今どうなっているかは確かめなかった。吉林省電視台か長春市電視台になっているのだろうか。そういえば、その時はハルビンに行かなかったのだが、石光真清の手記を読んでやっぱり行ってみたいと思った。なんだか満州フリークになりそうだ。




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