
No135.
[テレビの立ち位置]
-地方の時代映像祭・デジタルネイティブ・広告費・NTT再々編- |
2009.12.1 |
[I]
「“Sois sage ,Oh ma douleur” おお わが「苦悩」よ 聞き分けて 静かなれ」
「SBSスペシャル 日本兵サカイタイゾーの真実〜写真の裏に残したことば〜」(静岡放送制作 ディレクター岸本達也・47分)は第29回「地方の時代映像祭2009」のグランプリ受賞作品である。
硫黄島で米軍に投降したサカイタイゾーと名乗る兵士が、尋問担当者に一枚の写真を預けた。その写真の裏にはフランス語で「“Sois sage ,Oh ma douleur” おお わが「苦悩」よ 聞き分けて 静かなれ」(ボードレール『悪の華』・堀口大学訳 新潮文庫版)と書かれていた。サカイタイゾーは実は坂本泰三であったことが判明し、写真は尋問官の家族から坂本泰三の家族に返還される。坂本家の家族、数少ない硫黄島生き残り兵士、そしてアメリカ関係者などの取材により番組は最後まで緊張を持続しつづける。
投降したサカイが、戦争終結のために日本軍の情報を供述していたことを聞いた硫黄島元兵士の沈黙と呻きの長いカットは圧倒的で秀逸だ。取材者もカメラマンも、その時間を耐えていたことが伝わってくる。唯一の不満は、サカイの「信念/裏切り」と、「生きて虜囚の辱めを受けず」という呪縛の深さとの関係にいまひとつ踏み込めていたら、サカイの残した永遠の謎の「謎」としての重さと深さがより明確になり、日本近代の精神史のあり様に迫れただろうということだが、それは観るものとしての私の思いであって、グランプリの評価を変えるものではない。
ローカル局の制作力の並々ならぬものを示した番組であり、それはその力量をテレビの将来にどうつなげるか、テレビがはじめて(といっていい)直面している厳しい状況のなかで、地域とは何か、地方局の存在理由は何か、キー局は何をしているのか、そしてテレビの可能性は何処にあるのか、ということにつながるのである。
[II]
「米軍基地問題の報道で、反基地の視点に立ち続けることに対して、『報道は中立であるべきなのだから、何故賛成派の声をもっと取材しないのか』といわれることがある。賛成派を取材することが中立なのだろうか。賛成派もやむなく賛成しているのであって、それを取材しても中立が担保される訳ではない。賛成派-反対派という関係は基地問題の基本的関係ではない。基地報道の原点は、沖縄に集約している基地問題を国と国民に問うことであり、日本全体のからくりを地方から読み解くことである」
こう発言したのは「地方の時代映像祭」のシンポジゥムのパネリスト琉球朝日放送の三上智恵さんだった。彼女は「大きな権力に向き合うことはカッコいいことも承知している。地方の人間関係の中での様々なしがらみの中での取材は容易ではない」とも語っている。
琉球朝日放送は沖縄第3局として、P1(当該地区で最初に開設した局)の琉球放送に設備機材そして要員も依存しつつスタートした局である。実質的な1局2波とも言われてきた。その局からこうした報道の原点を見据えようとする姿勢と、そこから視聴者に「問う」ことを持続してきたことは、ローカル民放の存在理由を考えるために貴重である。ローカル民放がNHKとは違う役割があることも、ここから見て取ることが出来るだろう。
だが、いま地域免許制度と全国4波化は情報通信全体の構造的変化と放送産業の経営環境の中で、否応なくそのあり方を見直されようとしている。産業政策と放送の機能・役割が交差するその交点はどこか。事前に用意された「解」はない。放送産業全体が右肩下がりに入りつつある時、キー局も直近の経営課題に追われている。しかし、「放送の機能・役割」もまた経営のうちなのである。マスコミュニケーションがコミュニケーションとして成立するためには、<メッセージ>がなければならない。それが視聴者に届けることからコミュニケーションが始まる。その意味で三上さんの発言は重い。
[III]
「“デジタルネイティブ”はテレビをどう見ているか」(BPO放送と青少年に関する委員会の調査より) |
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註: |
デジタルネイティブとは、「多様なメディア環境の中に生まれ育った、16歳から24歳まで」
の世代をいう。 |
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テレビ視聴並行行動 |
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携帯電話 |
18.8% |
パソコン |
5.6% |
紙媒体 |
4.8% |
生活 |
32.5% |
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■ |
大切だと思うメディア・1位に上げた比率 |
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1.携帯電話 |
69.5% |
(2位22.8% 3位4.5%) |
(携帯電話を1位としたものの2位はテレビで57.9%) |
2.パソコン |
16.1% |
(2位25.7% 3位37.9%) |
3.テレビ |
11.6% |
(2位43.1% 3位35.7%) |
4.ゲーム機 |
2.9% |
(2位8.4% 3位21.9%) |
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■ |
テレビの必要性 |
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[ないと困る] |
49.5% |
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[なくても困らない等] |
50.5% |
…(「なくても困らないがあってもいい」「あっても構わないがないほうがいい」「まったくいらない」の合計) |
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■ |
テレビの将来 |
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今よりもっと見られるようになる |
大学生 27.2% |
高校生 51.3% |
変わらない |
大学生 32.6% |
高校生 28.7% |
今ほど見られなくなる |
大学生 40.2% |
高校生 20.0% |
*PCを大切なメディア1位にあげたものでは、 |
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「もっと見られる」 |
16.0% |
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「変わらない」 |
34.0% |
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「見られなくなる」 |
50.0% |
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■ |
大きなニュースを最初に知ったメディア(オバマ大統領当選) |
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[テレビ] |
73.9% |
[家族友人] |
8.8% |
[携帯電話ネット] |
7.2% |
[PCネット] |
3.3% |
[新聞] |
4.3% |
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「テレビはケータイとの相関性が見られるものの、ケータイやPCより<大切度>が低く、『ないと困ると』思っている人は半分程度(しかいない!)であるが、大きなニュースを知る方法としては圧倒的に有力である」
これをどう読めばよいのだろうか。
推論としては、(1)デジタルネイティブにとって、テレビは環境化ないしは素材化している、(2)テレビ情報もそれに対応して情報の断片化(バラエティー化)傾向にある、(3)「大きなニュース」というが、「大きい」という設定はニュースを社会的意味として捉えているであって、デジタルネイティブにとってはニュース自体も「意味」ではなく「素材」である。つまり、「オバマ当選」は大きなニュースだが、デジタルネイティブはそこに何かの<意味>を読み取っているのではなく、断片化された素材に過ぎないのだろう。
同調査では、テレビ視聴機器はテレビモニターが96.9%で、チューナー付PC1.4%、ワンセグ0.5%と比較して圧倒的だという結果も出ている。ということは、第一次情報に接するメディアとしてのテレビは一定の機能を果たしているが、それは「ないと困る」ほどの<意味的>理由はないのであろう。環境化という観点からは、テレビをONにしたときに何が映っているということであり、そうだとすればそこに<生活>というリニアーな時間に対応した情報提供=編成が成立する、とテレビ局は考えている。
だが、テレビの<危機=テレビ離れ>は、一定の傾向性を示しているのは確かなのであり、テレビはどうすれば「ないと困る」メディアとして生き残るかという課題はその通りなのだが、しかし実は問題は<情報の無意味化>というポスト・ポストモダン状況?とでもいうべき事態なのではないか。そうだとするまことに根は深いというべきであろう。バラエティー番組の「劣悪さ批判」は尤もだと思いつつ、<情報の無意味化>の中で素材としての情報提供という意味では、バラエティーは最適な形式なのである。テレピのバラエティー化と視聴者のテレビ離れとは、デフレスパイラルのような悪循環に陥りつつあるように見える。マスコミュニケーションとしてのテレビの前提であるメッセージ性の対極に、いまテレビは身を置こうとしている。
[IV]
「2004年を境にGDPに占める広告費は漸減傾向にあり、この傾向に基づいて試算すると2015年のテレビ広告費は対2008年比で3,375億円マイナスとなる。これは、2008年のテレビ広告費の[キー局の0.9局+ローカル局21.8局]に該当する。テレビ広告費は1995年規模に縮小する」(野村総合研究所シミュレーション)
これはあくまでもシミュレーションであるが、2004年以後の傾向は主としていわゆる循環要因であって、ネット広告費の急伸という構造要因が顕著になる以前の段階を含んだ傾向値であろう。そうだとすると、これに構造的要因を重ねて考える必要があるだろう。
一方、こうした状況について代理店や局も危機感を強め様々な対応を試みている。G帯の番組でも番組内情報とCMの連携を強めることで、告知効果と広告費投下の相乗性を高める工夫が行われている。クライアントの中ではネット広告の効果を評価しつつ、マス媒体としてのテレビ再評価の動きもあるという。こうした<テレビ回帰>の前提には「ネットには<知ってる客>しか来ないが、テレビは<知らない客>を連れてくる」という認識がある。第一次情報提供の<場>としてのテレビの有効性が認められるということだが、それは「情報の環境化・素材化」と「アイキャッチ」の鬼ごっこ関係としてであって、その関係からは<情報の無意味化>をこえるモメントは見えてこない。テレビはネットを取り込む形で番組(メッセージ)とCMの複合化に踏み込むべきであろう。
[V]
「NTT再々編問題は、完全民営を含めどう再編するかという組織の問題ではない。国内市場レベルで考えるとNTTは強者に見えるが、国際市場では負け組みだ。日本は人口が減少し、GDPなど経済成長力が低下する中で、情報通信分野は数少ない可能性のある分野なのだから、NTTのイノベーション力を高める方向で考える必要がある。現在でさえ世界に2周遅れの状態で、このままでは3周も4周も遅れ、アジアの勝ち組である中国の属国化してしまう。寡占化のあとにオープン化というシナリオは、マイクロソフトもグーグルもそうだった。そもそもサービス産業は内需型だが、日本の情報通信サービスは国際展開の可能性を持っているのだから、それを成長戦略として位置づけ、上位レイヤーでインターオペラビリティーを機能させることが大事だ。そうした観点からNTT問題を考えるべきだ。そうした成長戦略を具体化し、イノベーションを活性化する意味でNTT銀行、NTT幼稚園、NTTテレビ、などなどがあっても良い」([シンポジゥム「情報通信制度改革三部作シリーズ」第3回<NTT再々編問題はどう決着をつけるべきか>・慶応大学SFC研究所]の各パネラーの発言を大雑把に一括りにしてみた)
フーム、そういうことか。NTT問題は、他の通信事業者との競争関係の公平性という問題だと理解してきたが、議論のレベルが大きく変わろうとしていることが良く分かる。確かに、日本のサービス産業の質は高い。これを海外展開しようというのはもっともな方向だ。しかし、「寡占のあとの開放」というのは少し都合が良すぎるように思える (では、放送市場はどうかという論点は成立するだろうか?)。結局NTT法の下の特殊法人を完全民営化するにしても、国内的な公平原則より国際的に強力なナショナルフラッグ企業にしようということなのだろうか。それにしても、当事者抜きで議論すると随分自由というか大胆というか、ホンネというか、いろいろ意見が出るもので、それはそれとして面白かった。
ところで、「NTTテレビ」って何だ?NTTの放送参入という発言は、「通信・放送の総合的法体系」=「融合」問題を考えるための例題としてよい材料かもしれない。NTTが放送に参入するといえば、放送界はNHKも含めて間違いなく反対するだろう。それが放送界にとってプラスになるとは思えないという意味で、私もそう思う。では、その根拠は何か。(1)独禁法的観点から競争の公平性を損なう。(2)既存事業者の買収ということであれば、言論の多様性の観点で問題がある。(3)ハード事業者として参入するとすれば、既にデジタル投資が終了する段階では効率的な中継システムを構築する機会は過ぎている。
だが、<NTTテレビ>論者は、それらを条件的に回避すればよいのであって、情報産業の基盤の強化という一点においてNTTの放送参入を提起しているのであろう。あるいは、地上波で難しければ衛星やケーブル+IPTVではどうか、と考えているであろう。そうか、「総合的法体系」のネライはそういうことか、とウラ読みをしたくなる。
では、<NTTテレビ>論を荒唐無稽といえるだろうか。それとも、中長期的なテレビ広告費の漸減傾向による経営環境悪化の中で、放送産業への投資としてありうるものと考えるべきか。いずれにせよ、<放送とは何か>ということを考える「反面設問」として受け止めたい。
[VI]
以上の(もちろん他にも色々あるのだろうが)論点の中で、テレビはいま次世代のイメージを描こうと苦渋している。その苦渋の中にテレビの可能性と未来がある。<地域性><メッセージ性/表現><情報の意味/無意味><広告の変容とマス媒体のあり方><法体系と情報市場>などなど。通信事業者はこうした苦渋を知らない(通信事業者に苦渋がないといっているのではない)。だから、通信と放送はインフラや端末、そして資本と事業などなどで融合・統合などは進展するとしても、放送固有の存在理由はあるのである。
放送は<一つのそして多様な全体>なのである。インターネットは<情報のタダ化>をもたらしたと前回書いたが、インターネットがもたらしたもう一つ情報行為は<情報の素材化・断片化・無意味化>であった。視聴者(ユーザー)オリエンテッドというが、膨大で無秩序な情報を個人が編集(意味化)するためには、高度なメディアリテラシーが求められ、またそこからさらに社会的共通性を形成するとなると何らかの情報システムが必要となろう。そうだとすると、そこからマスメディアの存在理由を再構築することが出来るはずである。もちろんその存在理由は客観的普遍的に何処かにあるものではなく、放送事業者が自ら構築し、継続的レビューにより形成されるものである。そこから、情報の無意味化によるメディアの空洞化を、権力がどう認識するかという論点も浮上する。情報政策・制度の問題は産業政策として提起されているが、その産業は<意識産業>なのである。そうであればこそ、放送の自律と自立、視聴者との想像力競争こそ放送が放送であり続けるための原点であることの重要性を忘れてはならない。
「そんなこと言ったって経営はどうなる」という声があることは承知している。いささか韜晦していうのだが、再び内田樹さんの至言を引用しておこう。「一般解のない困難な問題について考え抜くことは、しばしば一般解にたどりつくより以上の知的利益を私たちにもたらすだろう」。知的利益も重要な経営資源であることはいうまでもない。因みに、NTT問題の議論を聞きながら内田さんの「日本辺境論」(新潮社新書)を思い浮かべていた。そのことはまたいずれ。
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