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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No136.
[<想像力>が情報を<放送情報/番組>にする]
2009.12.15

 放送産業の収益構造はどうなっているのかと聞かれれば、通常は次のような答えが用意されるだろう。一つは、広告市場の需給関係により、投下される広告費と番組制作費の差額が租利であり、そこから人件費等の様々な間接コストが引かれた残りが利益であるという説明である。その上で、広告は視聴者への商品あるいは企業イメージのアナウンスであるから、その効果の指標として視聴率がある。したがって、視聴者ニーズに応じた番組編成が収益確保の前提である、というわけだ。さらに、放送事業は周波数という流通路を、免許により寡占的に利用するという制度的アドバンテージを有することも、この収益構造の重要な要素であることを付け加えることも出来る。以上が、放送事業の経済的仕組みとされている。そして、この構造がインターネット時代に揺らぎ始めていることは、このノートでも触れてきた。だから、いまこの放送の構造を改めて考える必要があるのだ。
 ところで、<放送という経済行為>における商品は情報(あるいは番組として形式化された情報)である。では、<情報/番組>とは何か。
 情報は日々刻々、至るところで生起している。これを<原情報>とするならば、そのなかから「伝えたい」あるいは「伝えるだけの有用性のある」情報を捕捉し、伝える方法に適した形にすることで<情報>が成立する。これは個人においても日常的に行われていることであるが、新聞・雑誌・映画・ラジオ・テレビのようなメディアでは職業として成立している。この場合、メディアとは単なる物理媒体あるいは手段という意味を超えて、<情報伝達>という行為も含んでいる。
 情報伝達のあり方は媒体特性によって様々であり、メッセージとメディアは相互的である。放送においては、「公衆(不特定多数)が受信する無線による送信」に相応しい形が選ばれる。記録より伝送が先行し、時間軸に沿って情報を送出し続ける(しかなかった)というメディア特性を前提にして、放送の<情報>は成立した。それが、情報の区切り目に応じて、あるいは広告提供という行為との折り合いから、<番組>という形で定着する。<放送情報>は、後にVTRそして今はデジタルデータとして記録、蓄積、再生が可能となり、番組は他のメディアを流通するときにコンテンツと呼ばれるようになる。だが、番組化されない情報もあるのであって、例えば大事件・大事故の場合、放送はその原点に戻って、区切りのない<放送情報>を放送し続ける。モノに固定(記録)されて伝送・配布されない情報が<放送情報>の原型なのである。タレントの事件やスポーツ中継の絶叫型レポートは、そのDNAのカリカチュア化された継承であろう。

 さてそれでは、放送において<情報>は如何にして<放送情報/番組>に変身するのであろうか。それは、取材者や制作者が、情報をどのようにデザインするかと思う<想像力>によるのである。ニュースは事実を伝えるのだから、想像力とは無縁だといわれるかもしれないが、全くそうではない。その事実がどのような意味を持ち、方法としてどのように伝えることを選択するか、伝えられることでどのようなリアクションがありうるか(もちろん、リアクションは伝達者の想定を超えるのであるが)、などなどは想像力の問題である。ドラマやドキュメンタリーは言うまでもないがバラエティーにおいても同じであり、バラエティーこそ批評や風刺という行為を内在させることを考えれば、想像力を欠いては成立しない。情報を<放送情報/番組>=コンテンツたらしめているのは<想像力>なのである。

「視聴者のニーズに合わせたら、視聴者サイズのものしか出せないじゃないですか。視聴者って、そんなにプロじゃないから、ものすごいことを考えるとは限らないでしょ。プロのやることは何かといったら、視聴者のニーズを知っていてもいいけれど、それを超える想像力、イマジネーションがあってこそだと思うのです。」(今野勉の柳美里との対談における発言・「創」2010.1.号)

 そこから問題は二つに分かれる。一つは、放送という職業として情報に関わるときに、想像力は組織を通して実現される。そこでは、取材者・制作者の個人と組織(例えば報道局とか制作局など)の関係であり、さらにそこに企業としてのリスクヘッジという抑制が加わる。こうした<想像力と組織>という放送局内の関係は、常に何が原則かをレビューする仕組が機能していないと、政府機関等からの権力介入の余地を生むことにな.る。もう一つは、想像力はいかに評価されるかという問題である。放送局という企業経営において、想像力は取材者・制作者の労働の対価としての評価を受ける。それは社員であれば労働時間の対価であり、社員ではない契約関係であれば演出料など期待される成果に見合った対価である。これは番組制作に関する商習慣であるのだからそれでよい。
 しかし、<想像力>には対価性に還元されない何かがある。情報を<放送情報/番組>という形にするとき、「無から有を生む」とまでは言わないが、<労働時間>や<成果物>として客体化されない何かが働いているのである。それを、賃金や契約金といった労働関係に内包するのはそもそも無理がある。何故ならば、そうした<契約>は経済行為の関係であり、<想像力>はその経済行為の外に関わることで成立するからだ。放送の社会的役割、あるいは<公共性>、そして「放送は文化だ」(とは、通信と放送の相異をいうときの放送事業者の主張である)などについて、いわば放送の存在理由を語るときに、この「情報を<放送情報/番組>たらしめているのは<想像力>である」ということを基点にしないと、本質的な論点を提示しえないということなのである。

 もちろん、これは放送だけではなく、ジャーナリズムや芸術的行為などに広く当てはまるのであるが、放送もそのことを埒外において自らの立ち位置を語れないということだ。これは、著作権のあり方にも関係する問題だろう。
 情報を<放送情報/番組>にするときの<想像力>こそが、放送の公共性を制度による規定から解放し、制作者が視聴者(市民・国民)と直接的な関係として成立させることを可能にする。<想像力>とは<問題提起能力>であり、職業としての放送人はそのために存在する。しばしば公共性は福祉との関係で語られるが、公共の福祉とは何か。マスメディアの問題提起行為と「福祉」との関係はどうであるべきか。生活と政治との非対称(不安定)の中で、<想像力>からメディア(放送)の存在を考える状況に今がある。
 事態は、実はインターネットでも同じなのだ。ただ、インターネット上の情報は、ほとんど<原情報>そのものものから、高度に専門的なものまでが入り混じり、単一の情報空間を形成しているとは思えない。つまり、ネット上には多様な空間が存在している。それはそれで情報の高度化であり、ユーザー主権型情報空間の可能性を実現しているのである。だが、放送、例えばテレビの情報空間のような一定の<共有性>は、<場>としてのテレビの存在理由を構成しているのであって、そこにおける制作者の<想像力>をどう考えるかが重要なポイントになるのである。<想像力>は、放送あるいは情報市場の<外=原情報>を市場内に転化するという、まことに魅力に溢れた行為なのである。そのことを職業とする意味を捉え返すところから、放送の可能性を見なければならないだろう。

参考:「純粋な自然の贈与」(中沢新一・講談社学術文庫)



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