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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No137.
[政権交替・10年代の放送・中沢新一を読む]
2010.1.1


謹賀新年

 昨年、政権交代がありました。その意味するところは何だったのか。政権に携わる者やその周辺にいる人たちがどれほどの認識を持っているかはいざ知らず、いま進行しているのは、混沌であると同時に<のっぴきならない>地点に私たちが立ってしまったということでしょう。例えば、沖縄基地問題にしても「日米関係を憂慮すべし」あるいは「防衛政策が不安」といった批判があるとして、それでは日米安保体制は永遠に不滅ということは自明のことなのでしょうか。自力防衛、軍備増強を是とするといっているのではありません。結果として、日米合意に戻るとしても、そこには連綿たる持続ではない新たな選択という意味を持つのです。しかし、日本はどのような選択をするべきかということを、政権交代は問うてしまったことは間違いないようです。「東アジア共同体構想」も政治的意図を越えて、<日本の近代とは何だったのか>という歴史的問いかけに他なりません。政権担当者のみならず、有権者の思い以上の変化が起こり始めているのでしょう。誰かの、あるいは共通認識としての判断ではないところで事態が進行する、まことに政治とは不可思議で奇怪な力学が働く場なのだと思わざるを得ません。ただし、それにしても政治家の判断とはアクチュアルなものでなければならないということが、実に顕に示されているということも確かです。流動する状況の中で、それを欠いた政治家が時代に置いていかれる例はいくらでもあるのです。
 それはそれとして、こうした力学の外に放送がいられるはずがない。(戦後)民主主義が「健全に」機能することを立法趣旨としている放送法制についても、「総合的法体系」の検討の中から答申された見直し論議に加えて、政権交代がもたらした<戦後>から<戦後・後>への政治の転換という新たな状況の下での議論に入ることになります。政権担当者も有権者も想定しなかったであろう変化に、私たちも向き合うことになるのです。「放送とは何か」を放送に関わる私たちが自らに問うこと、そこから「放送法制はどうあるべきか」、「放送の将来のために何を選択するか」の議論がなされるべきでしょう。今年は、私たちにとってそういう年なのだと思います。
 21世紀も0年代が終わり、10年代に入りました。この10年間をどう総括するかの議論が、「思想地図」(vol4特集<想像力>などで)始まりつつあります。放送も10年代に向けての論理構築を避けてはならないと思います。

『贈与は一切の等価交換を否定する。贈与の空間の中に入った「もの」たちは、どれも個性的な顔を持っている。その個性を、単純な価値に還元して、お互いを比較しあって値踏みしあったりすることを、この空間は真っ先に否定するのだ。どの「もの」も、単純な意味、単一の価値でできていない。それぞれが個性と複雑さを備えている。だから、そういう「もの」どうしを等価交換しあったりできない、というのが、贈与の精神の原則なのだ。(略)贈り手と受取り手、語り手と聞き手が、ここでは共通の領土を共有しあって、その中でおたがいに影響を及ぼしあいながら、未知の構造をつぎつぎとつくりだしていくのだ。等価交換が支配している世界では、そのような「創造」は原理として不可能だ。ものの変態はおこっても、新しい構造の創造はおこらない。』(中沢新一「新贈与論序説」)

 では、「もの」とは何か。
 「もの」について中沢新一は次のように書いている。「…重要なのは、物質でもなく精神でもないモノの深さを知って、それを体験することだ。…精神と物質を分離したその瞬間に、そういうモノは見えなくなってしまうのである」(「モノとの同盟」)。また、「すばらしい日本捕鯨」で、市場の外(自然との関係)における人間の行為が市場に転化される構造と意味について興味深い考察を展開している。

 世の中の、あるいは自然界も含めて様々な事象は情報として人々に認識される。その情報を「放送情報=番組」という形に転換するためには、そこに想像力が介在する。その想像力は、等価交換の関係におかれるものではない。それは<贈与>に近い行為なのである。しかし、<番組化>された情報は等価交換の関係においてのみ市場に認知される。情報を市場の外から内へとつなぐのは<想像力>である。だから、想像力によって制作された<番組>という「もの」は、コンテンツと呼ばれる等価交換の市場内だけで通用する無機質な存在ではないのだ。




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