TBS-MRI TBSメディア総合研究所
home
メディア・ノート
    Maekawa Memo
No140.
[「将来研」報告書・予告編]
2010.2.15

 民放連研究所の「放送の将来像と法制度研究会」が2年間にわたる検討作業を終了した。委員長役を務めたが、大学や研究機関の中堅(つまり一番熱心で積極的な人たち)との議論は刺激的で面白かった。「報告書」を作成したが、通常の研究会のように、各委員の意見の最大公約数を基本とした取りまとめという方法はとらなかった。最大公約数が成立しないのである。そこで、主な論点について、(もちろん各委員の発言を踏まえつつ)最終的には[委員長総括]という形にした。言ってしまえば「エイ、ヤッ!」というところだ。
 この「報告書」が通常の民放連の意見と違うところは、もう一つある。民放連の活動は委員会制度が基本であり、委員会ごとに委嘱した会員社のメンバー(各社社長など経営レベル)が議論し、その結論を理事会が承認して対外的に公表するというものである。したがって、当然その結論は民放事業者の現実的な利害関係が反映されたものになる。
 しかし、今回の研究会は研究所の所管であり、外部委員により構成され(在京局からオブザーバー委員が参加)、また、民放の将来的あるいは本質的課題を対象としたので、極めて自由なかつ客観的議論が成立した。それにより、個別具体的な利害を超えて放送の本質を語ることができたと思う。もちろん、そのような経緯から生まれた方向性は、些か抽象的・理念的なものに傾斜している。そうしたことも含めて、この「報告書」は民放事業者の総意ではなく、民放事業者への提言という性質のものになっている。
 「報告書」は、3月24日のシンポジゥムで公表される予定で、それを機会になるべく多くの方に配布したいと考えている。「報告書」を是非お読みいただき、放送についての議論の材料になれば幸いである。内容については、今回は予告編なので省略。とはいえ、いくつかのキーワードをピックアップしておきたい。「放送法は何故必要か」、「公共性と市場性」、「自律と自立」、「独立行政委員会とBPO」、「視聴者目線と想像力」、「地方局の制作力」、「放送制度の再設計」、などなど。
 おそらく、「理屈や理念では経営はできない」という声も上がるだろう。だが、「理屈や理念のない放送局経営なんてあるの?」とこの2年間(ホントはもっと前から)思っていたのだった。この「報告書」特に[委員長総括]は引退前の遺言状みたいなものでもある。

 「日本文学史序説」(加藤周一)を読み終えた。前回も少しその感想を書いたが、現代まで読み終えて思ったことがある。古代から継続してきた漢学の素養が漱石・鴎外の世代で途切れたこと、つまり日本語の文学的言語の二重性の転換点がそこで起こったのだが、それは現在の私たちの思考のスタイルにどう関係しているのだろうか、ということだ。表意文字と表音文字の使い分けは今も継続しているが、外来語のカタカナ表記が盛んになっているのは、漢字系国語力/造語力が落ちているのであろう。「日本語の滅びる時」(水村美苗)や「文字論」(柄谷行人)を読み返してみよう。
 加藤周一氏もそうだが、例えば林達夫や久野収のような大教養人はもう出てこないだろう。そして、知のエリート層の解体は、この国の知の世界にどういう影響を与えつつあるのだろうか。そして、それはネットとデジタルによる知のあり方とどう関係するのだろうということを思ったのだった。

 「米欧回覧実記」(久米尚武・岩波文庫5巻)を読み始めた。岩倉視察団(明治4年)の随行員だった久米は、江戸末期の知識人であり明治政府の官僚でもある。読み始めた途端に、その観察力と記録力に驚嘆した。買ったまま積んどいた本だが、面白い。




TBS Media Research Institute Inc.