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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No141.
[ウェッブは無限、テレビは有限]
2010.3.1

 『使ってもらえる広告-「見てもらえない時代」の効くコミュニケーション-』(須田和博・アスキー新書)を読んだ。須田さんは博報堂のクリエイティブディレクターで、マス媒体からウェッブに仕事の場を移した現役のクリエイターである。2年ほど前にあるシンポジゥムでお目にかかった縁でこの著作を送ってくださった。とても面白かった。
 ウェッブあるいはインターネットの可能性を熱心に説く論者は多い。多分彼らの言うことは傾向としては当たっているのだろうが、些か食傷気味でもある。須田さんはそれを広告という場を通して、ユーザーの情報行動がマス媒体におけるそれとどう違うのか、これからの広告にはどういう可能性があるのかを、経験的かつ感覚的に、そしてさりげなく論理的で少し挑発的だが、したたかに広告に「愛」をこめて語っている(実は、ココが大事なのだ)。ネットというものを本当は良く分かっていない僕が言うことだから、須田さん本人は「イヤ、そういうことじゃないんだけとなァ…」と言うかもしれない。だけど、面白かったことは間違いないのだから、それについて少し書いておきたい。

 率直に言うと、テレビ業界より広告業界のほうがはるかにウェッブの世界の動向に敏感だと思った。モノの売り買いの仲立ちをするのが広告だとすれば、マス媒体の広告(表現型)ではモノが動かなくってきているということは業界の存亡に関わるのであり、須田さんのようなプロにとっては存在理由を疑われるのだから、ユーザーの情報行動(使えるサービスへの期待)がどうなっているかを知らなければならない。当然と言えば当然だ。それに比べるとテレビ制作者たちが視聴者(同じ人間がテレビとつながるときは視聴者で、ネットでつながるとユーザーになるわけだ)の行動にどれほど敏感か疑わしい。各局ともマーケティング部門や調査会社のデータを見て、アレコレ編成方針などを考えているに違いないが、それにしても「本当は何が変化しているのか」が見えていないような気がする。そういうと、「現場は一生懸命やってるんです」と言われそうだが、どうもテレビへの「愛」=熱い思いが足りないように思える。

 では、須田さんの本で何が面白かったのか。アチコチに「アッ、そういうことか」と思わされた文章(コピーと言ってもいい)に出会ったので、特にテレビの現在と関わるであろういくつかの例を挙げてみる。
 まずドキッとしたのは『「あー、おもしろかった!」で終わるコンテンツにしてはいけないということ。そこで終わると、ウェッブ広告の場合は効果が尻すぼみになる。なぜなら、ウェッブは無限空間だから。世界中でサーバーが増設されて、まるで宇宙のように日々拡大しつつけている。そこにあるすでに見きれない情報量の中に、新しい情報をまた一つ公開しようというのだから、そのままにしておいたら見つけてもらえるはずがない」というくだりだ。その後に「地上波テレビは、映像が流れるスペースが有限(チャンネル数×24時間)で…」と続く。そうか、放送はそもそもドメスティックなものとして登場したのだし、ネットの越境性も理解しているつもりでも、こう書かれると「ウェッブ(ネット)の世界は無限で、テレビは有限なんだ」と実感する。もちろん、テレビ番組(コンテンツ)は有限ではないとしても、である。有限だからダメということではないし、そもそもそういうものとしてテレビは存在してきのだが、これからは<無限のウェッブ世界>とどう付き合うかということから、テレビの立ち位置を考えるしかない、ということなのだ。
 それから、「コンテンツ消費からコンテクスト消費へ」という指摘もある。『ウェッブに上げられた膨大な画像、映像、音像などの情報ピースをひとつひとつの「コンテンツ」(表現)と見た場合と、ひとかたまりの「コンテクスト」(文脈に乗ったコンテンツ群)としてとらえた場合とでは、まるで見え方が違ってくる。ユーザーは「ジャンルタグ」を通じてそれらの作品群のつながりや、コミュニティー的な盛り上がり、現状にいたるまでの経緯など、ウェッブ上のさまざまな広がりや変遷を感じながら鑑賞する。「アーカイブ」や「参加」を前提とした楽しみ方なのだ』というユーザーの情報行動の説明は、テレビとネットの関係を解説した調査研究は色々あるが、それに比べるとひどく分かり易い。
 民放連研究所の「放送の将来像と法制度研究会」の「報告書」で、テレビの公共性は放送により受け手(視聴者)相互間のコミュニケーションが成立する<場>を形成することにある、という趣旨のことを書いたが、そのコミュニケーションがウェッブ上で成立するのに何の不思議もない。問題は、視聴者=ユーザーが数多ある情報の中の一つとしてテレビ情報に接し、尚且つ様々な彼らの情報のコンテクストの中でテレビを見ているということなのである。つまり「いまや人々はどこかの“族”に属するというよりも、自分の中に“属”する複数の嗜好(属性)をフラットな状態で同居させながら、日々を過ごしている」のであって、テレビはその中の一つということになる。こうした“属性”のことを、須田さんたちは「タグ」と呼んでいる。このような人たちの意識と行動をテレビはどうとらえるか。テレビを見る人々を視聴者としではなく、ユーザーとして考えないとテレビ情報の有効性が見えてこないということだろうか。多分そうなのだ。だからといって、じゃあ「使ってもらえるテレビ」って言えばいいかというと、なんだがデータ放送の宣伝文句みたいで変な感じだ。
 そして、その延長に『CGMにアプローチするときに一番マズイのは「CGMを使ってやろう」といったエラそうな考え方だ。あくまでも、「CGMの仲間に入れてもらう」といった謙虚さが絶対に必要だ。なぜならば、CGMのユーザーたちは「プロの参入」も「資本の投下」も、基本的に歓迎しないからだ。そもそも「イラネ」なのである。ビジネスのニオイをさせた広告会社なんかに、自発的に創造性を発揮して楽しく遊んでいる“広場”に入って来てほしくないのである』とくる。フーン、そうか。テレビでバラエティーやワイドショーが主流になり、タレントの素人化が増えているのは、番組としての<意味>ではなく、その中の話題の陳列の方が視聴者=ユーザーの嗜好に合っているからで、それにテレビなりに反応していることなのだろうか。僕が時々使う番組の<素材化>というのは、こういうことなのだ。ともかく、彼らは情報の洪水の中で、日々刻々知りたいことを効率的に選択しているということは確かなのだ。『ウェッブ上で圧倒的な存在感を見せ付けるサービス群は、いわゆる“いい表現”を志向していない』というのは、テレビにもいえるのだろうか。
 須田さん自身は「表現されたもの」が好きだと言う。だからこそ、クリエイトが意味するものが変わりつつあることを痛感しているのだと思う。そして、須田さんは総合広告会社の持つ「総合力」の強みと、「プロ」だから出来る仕事というものを大切にしている。それでも、「ノーボーダー化は、オタクにかぎらず、あらゆるジャンルでおきている」のであって、だから『「インターネット」というインフラと「サービス」と言う武器、そして日本のカルチャーに根をおろした「ストーリー」があれば、世界のどこにでも需要があると思う』と言い、「すでにネットという“黒船”は来た。いまこそ広告界も鎖国を解くべきだ」と宣言している。この言い方は、この本の須田さんの語り口からすると少しパターンにはまっている気がするけど、色んなギョーカイでそういわれているのだし、まぁ「キメ」としてはそういうことだろう。

 ただこうも思うのだ。「いまやヒマ人などいない」のであって、「自分に関係ない情報はまったくカンケーないというのが、いまどきのユーザーというものである」と須田さんは言うのだが、それってチョッと危ないんじゃないかな、と。自分に関係あると思ったら「ノーボーダー」で世界につながれるのがウェッブ=ネット社会というものだろうが、一方では「関係ないと」思ったものでも「関係させられてしまう」のがリアル社会(あるいは少し硬めに言えば政治)というものではないだろうか。政治の幅は生活の幅より狭いのに、何故政治が生活を支配するのか。そこのところに、テレビが機能する<場>があるように思うのだ。

 須田さんが「使ってもらえるサービス」を考えるきっかけとなったUNIQLOCKを見てみた。すごく素敵な表現に思えた。「使われる」ためにも情報と機能はデザイン化されたほうが良い、そう思った。やっぱりプロは必要なんだ、とも。だって、視聴者やユーザーを裏切るのもプロの仕事なんだから。

 「幕末維新パリ見聞録」(成島柳北「航西日乗」 栗本鋤雲「晩窓追録」・岩波文庫)を読んだ。あの時代の日本人がヨーロッパで何を見たのか。それが開国後の日本に何をもたらしたのか。「開国派」須田さんのカンヌ(国際広告祭)見聞録に期待している。




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