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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No144.
[文字とネットの間で、テレビは「どちらでもあり、どちらでもない」<蝙蝠>のような存在だった?]
2010.4.15

 明け方眼が覚めた。頭の中で中島みゆきの「悪女」のメロディーが鳴っている。音楽がなくてもあまり困らない僕としては珍しい。数日前に見たNHKの「プレミアム8」で中森明菜が歌っていた。
 起き上がって、アクエリアスを一口飲んで煙草に火をつける。机の上に「高く手を振る日」が置いてある。黒井千次の小説で、「70を超えた男と女の純愛小説」と帯にある。良い話だ。リリックであり少しシュールでもある。老年を描いた文学では筒井康隆の「敵」というのが凄かった。こちらはもっとシュールだった、などと思っていたら、ふとアンドレ・ブルトンの「シュールリアリズム宣言」が、学生生活の最後に読んだ一冊だったことを思い出したりした。
そのとき、日記にそう書いて以来、日記というものを書かなくなったということも、ついでに思い出した。一昨日井上ひさしが死んで、言葉と格闘した作家というような批評があちこちに出ているが、作家は誰も言葉と格闘しているのだろう。

「高く手を振る日」を読んで「ドラマになるな」と思ったのだった。リリックとシュールとなれば、脚本は市川森一、黒井千次と市川森一なら、演出は堀川とんこうサンだろうな。主役は久米明と池内淳子、それじゃあ数字が取れないよ、といわれるだろうが、妄想のようなもんだからいいじゃないか。久米さんの娘は森下愛子もいいけど、中森明菜はどうだろう。

 僕が最後にドラマのプロデューサー・ディレクターだったのは1983年だから25年以上も前だ。そのころ、「タレント名鑑」という写真入の出版物があって、脇役のキャスティングのときにしょっちゅう手にとってパラパラ捲って眺めたものだった。そうしているとマネージャーたちが寄ってきて、ああでもないこうでもないと話しながら役を決めたものだ。今はどうなのだろう。当然のことながら、デジタルデータ化されているに違いない。それもパッケージではなく、サーバーに入っているのかもしれない。
 「高く手を振る日」の隣に「紙の本が亡びるとき?」があって、ページの隅を折ったり、ポストイットを付けたりしてある。メディアノートに書く用意をしていたのだが、うまくいかないので放り出したままだ。そろそろ何か書かなければと思っていたのだが、そうかここで話がつながるナ。それに、iPadの話題も賑やかだし。で、ランダムにページを開いてみる。頭の中の「悪女」はまだ鳴っている。


 「…たとえばパチンコがこの二十年に、世界の構造を小さく反映し、完全なアナログから機械化さらには電子化され、『球体の物理運動』という本質を失いかけて異質なものとなりつつあるように(版権への依存が増えたそれは近い将来、きっと『釘』や『球』すらなくなって、『射幸心への刺激を伴ったミニ・アニメ』みたいなものになるだろう)、システムの変化は、そのシステムの上で動くものの本質を書き換えてゆくのだから(下部構造とはそういうものだ)、…そういう構造変化が、近くは『文学』なり『小説』なりにどういう影響を及ぼすかについて、そこにかかわる者たちは考えぬわけにはいかないし…」

 デジタル化による情報システムの変化を、これほど分かり易い事例で解説するのは稀である。テレビは機械化されたパチンコ段階にあるのであって、「釘」と「球」の世界なのだろう。だから、デジタルとネットに関わる構造変化について「考えぬわけにはいかない」のだ。で、どのように?

「かつて多くの技術がそうだったように、決定的なそれが起ききる以前には想像し難く思える変化は、起きてしまえばまたたくまであって、その意味で(グーグルの…筆者註)『ライブラリプロジェクト』は(短期的な混乱を招きこそすれ)一企業の無謀な夢ではなく、すでに確定的な未来をいくらか加速させるひとつのデバイスにすぎない。しかし、その先には、それらとは質の異なる、そうした機会主義的な企業論理ではおそらく想定されていないだろう、後戻りのできない変化が待っている」(下線部分は原文は傍点)

 そうなのだ。デジタル化の意味は効率性をこえたところで起きつつある変化なのだ。効率化あるいはそれによる利益を得ることで、何を失うのか。失わないために何をするべきか。そして何かをしようとすると利益と不可分な経済行為の連環に嵌まり込む、この仕組みの外に出られるのだろうか。言語の「効用性」を越えたところで成立する文学にはそれが可能だとして、テレビはそもそも「文学-詩的表現としての言葉」と対峙しているわけではない。では、テレビにおける表現とは何か。その根拠は?テレビと文学を並べるのはおこがましいかもしれないが、問題はそうした比較ではなくて、テレビはデジタル化によって失うべき何かを持っているかという問いを、何故自ら発しないのかということなのだ。

「産業革命から情報資本主義に至る変質の仕上げとしての『社会の電子ネットワーク化』が、他の何にも増して危機的(クリティカル)なのは、いま生じつつあるそれが個々のパーコレーションをめぐる変化ではなく、無数のパーコレーションを加速的に生じやすくする、『媒介(メディア)それ自体に影響する変化』だということだ」
()内は、原文はルビ。パーコレーションは、「普及・浸透」の意味だが、ここではそれが臨界点をこえて「雪崩的崩壊」引起すこと。インフルエンザにおけるパンデミックが例だが、著者は「ボナパルティズムもナチスもインターネットもワールドカップの熱狂も、さらには『小泉改革』も『禁煙ファシズム』も」という「消費モデル」でも起きるとしている。

 まさに、テレビはパーコレーションに加担することを商売にしつつある。「雪崩的崩壊」(=カスケード)に加担しつつ、その中に巻き込まれ立ち位置を見失う、そうした経験を何度も繰り返しているのが、いまのテレビなのだ。ここで、テレビとネットは(テレビが思っている以上)に「融合」しているように思われる。

「電子化されたデータの最大の強みは、それが、物理的・空間的な質量を有しないことである。…情報から質量を奪い去ることは、その効率性を飛躍的に高める」

 テレビは媒体に記録されないメディアとして登場した。それは革命的メディアの登場だと思われた。だか、当然のことながら、そのとき情報は電子データ化されていたわけではない。テレビの登場による社会的・文化的、かつ産業的衝撃を否定するものではないが、今思えばそれでも極めて過渡的なメディアだったのだ。では、デジタルテレビとは何か。テレビが想定したであろう情報社会の変化を遥かに超える形でデジタルネットワークは膨張している。「テレビは有限、ネットは無限」というフレーズを思い出している。

「…印刷という固着技術を前提にした『知』と、流動的なネットワーク空間での『知識』とは、大きく異なる性質を持っている。そして、いまや後者が前者を呑み込もうとしている。」(下線部分の原文は傍点)

 では、テレビジョンは呑まれる方なのかといえばYesというしかない。だが、活字よりはネットワークとの相関は高い。そうだとすると、テレビは呑む方と呑まれる方の間の蝙蝠みたいな存在か?

「…二十世紀後半まで続いた『十九世紀的な知』は、先行したマスメディアの形式を模倣するように(メディア自体が、さらに先行する知の形式を模倣したとも言えよう)、『歴史学』的な、線形で不可塑的なイメージを持っていた」

 テレビジョンは十九世紀的な形式の末尾なのか、二十一世紀的ネット的、つまり「格子状の全体から『知』を自由に出し入れする」ようなあり方の、密かな誰も気がつかなかった先行形態だったのか。

 そんなことを束の間の目覚めの間に切れ切れに思いつつ、「これでは『将来研』の<総括>をレビューしなければダメダ」ということが頭に浮んだ。朝起きたら、そんなことはスッカリ忘れてしまっているのかもしれないと思いつつ、ベッドに戻ったのだが、目覚めたときには、まぁ大体のことは覚えていて、いまこうしてメモにしている。「悪女」ではなく、高橋真梨子の「桃色吐息」が聞こえているのは、これも「プレミアム8」のせいだろう。

 ネット生中継があちこちで試み始められているが、ネットワーク時代の「公共圏」という問題設定は意味があるのかどうか。あるとすれば、国民国家とは違うレベルのものとして想定できるのかどうか。「これからの情報社会では、巨大ネットビジネスが支配力を強め、通信も放送も空洞化する」とは、とあるセミナーでとあるパネリストが発した言葉だが、「紙の本が亡くなるとき?」で本文の間でさりげなく括弧の中に書き込まれた「…きわめて巨大な権力と極小の自由とは、じつは意外と相性がよい」というフレーズが気になっている。

 シンポジゥム「放送の将来像を描く」の参加者アンケートで、「70歳に近いコーディネーターに、ネットの世界が分かるはずがない」という回答があった。年齢で区切るのはどうかとも思うが、かといって「それがどうした」と開き直るわけにもいかない。こうハッキリ書かれると確かに「チャンと分かっている」という訳ではないので、いささか憮然としつつ「…そうなんだよな」呟くしかない。時代が自分を追い抜こうとしている、そうも思うが、どう追い抜かれるかは結構大事な問題なのだ。

*「高く手を振る日」 黒井千次 新潮社
*「紙の本が亡くなるとき?」 前田塁 青土社




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