
今年に入って、このメディア・ノートの更新を毎月1日と15日に変更しました。新年のご挨拶はやはり元旦が良いと思ったこと、データによるとやっぱり毎月1日のアクセス数が多いということが理由です。引き続きよろしくお願いいたします。
「新・調査情報」の1/2月号の「焦点」に、「第2ステージに入った地上デジタルテレビ放送」を執筆しました。3回連続の第1回です。このメディア・ノートのページに添付します(ここをクリック)。あわせて、「新・調査情報」の定期購読のお申し込み(新・調査情報のページ参照)も宜しくお願いいたします。
天気の良い、風のない穏やかな日に、ふと「事もなく陽は高し」という言葉が口をついて出てくることがある。これだけ「事のある」世界なのに、やはりそういう日はあるものだ。それは、「事の多さ」への反語の気分でもある。
この一言が誰の詩だったか忘れていたのだが、それはブラウニングの詩「春の朝」の最後の一行のうろ覚えで、「すべて世は事も無し」というのが正しかった。この詩を引きつつ詩人の長田弘さんはこういっている(朝日新聞「私たちがいる場所・戦後60年から(6)」)。
「留保というのは、一つの言葉には一つの意味、一つの方向しかもたないのではない、ということです。言葉を走らせずに、立ちどまらせるのが、留保です」。「留保をもって言葉を向き合うという姿勢の大事さを考えるとき、いつも思い出すのは、広く世に知られる、この「春の朝」の最後の一行です」。「この国の歴史の光景の中に『春の朝』を置いて読むと、平凡な日常の、平凡な真実をたたえているだけのように見える、この小さな詩の言葉が、実は、20世紀という戦争の世紀に対する留保の言葉として、あらためて、胸に強く残ることに気づきます」。「何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉」。
「留保」とは、世界は多様だということを了解することだと思う。異なる存在の容認。異なる空間(生活)と異なる時間(歴史)が存在することを認めることからすべては始まる。「留保」とは、多様性を認めないことに対する拒否でもある。
その意味で、「留保」は判断停止(モラトリアム)とは違う。それは、一つの明確な態度表明なのだ。
なんであれ、世界を一色で染めるのは不遜だ。
例えば、メディアの世界にける三大変革がグーテンベルクの印刷機、テレビジョン、インターネットだとして、それらはすべて情報社会の「均一化による効率化(収集・編集・伝達)」を飛躍的に進化させた。しかし、人は何かを手にすれば何かを失う。私たちは、均一化と効率化の代わりに何を失ったのだろう。そして、いま失いつつあるものを確かめること。技術の進歩は不可逆的である。だからこそ、「留保」が必要なのである。
デジタル化や高度情報化社会の動向に身を置きつつ、こう考えるのは矛盾していると思わないでもないが、しかし常にそれへのカウンターの思考を持続することが、それこそが本来的テーマなのだと思う。ヴァーチャルと身体性の関係にも同じことが言えるのではないだろうか。政策論と経営論にメディア論が拮抗するためには、この一点を意識と感覚のなかにピンで留めておくこと。それが、メディアの中にいる者が情報環境の変化に向き合うための原点であるべきだ。
長田さんの最初の詩論集「叙情の変革/戦後の詩と行為」の黄ばんだページを繰りながら、そう思った。長田さんは、あのころの鋭利な感性を素地にして、成熟した語り口で語り続けている。
「春の朝」 ロバート・ブラウニング 訳詩 上田 敏
時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚げ雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
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