
No81.「メディアの経済学と政治学」
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2007.9.1 |
このところ「融合論的」情報産業政策に対して、「メディアの経済学ではなく、メディアの政治学が必要だ」と指摘してきた(例えば、メディアノート2007.6.15./ No76・バックナンバー参照。あるいは、「放送メディア論ノート」/民放連編「放送ハンドブック」所収)。メディアの政治学というのは、メディアと権力の関係の客体化であり、単なる政府批判のことではない。マスメディア(特に、テレビジョン)は、出自のときから<異議申し立て機能>と<共通の意識空間の形成機能>を包含し、後者は一方では<公共空間>を目指しつつ、他方ではそれは<ナショナリティー>と不可分であること、そしてそれは経営モメントとして<大衆の眼差しの集約>に必然的に傾斜し、情緒的に陥る。メディアを構成するこうした力学の中で、メディアの自立は如何にして可能かと問うことが「メディアの政治学」である。
しかし、確かに21世紀のメディア状況は、情報技術の変化によってインフラや端末の共用化を容易になり、新たな市場(融合領域)と資本の流動化を促していることは事実である。これを「融合」というのであれば、正しく「融合」は進展しつつある。「連携」という言葉に置き換えれば良いというものではない。融合論者が「融合」を明確に規定していないということが、状況を混乱させているのであって、それ故に「融合」の論点化が、大前提なのである。
さて、そうであるとして「政治学」としてメディアを考えることは、「経済学」としてメディアを考えなくて良いということでは勿論ない。直近のテーマで言えば、「総合的法体系」の発想は、産業政策として放送事業者(という言葉が排除されるかどうかはともかく)が免許される周波数で通信サービス(というカテゴリーがどう扱われるか、これも不透明だが)を行うことも可能にすることも視野に入っていると考えてよい。その場合、この法体系の最大の問題は情報(コンテンツ)規制をインフラ規制と分離することにあると認識し、法体系(とその前提にある論理)そのものを拒むのか、それとも放送事業の成長・拡大のために経済規制の緩和は検討対象として捉えるのかということが問われることになる。
どの業界でもそうなのだが、とりわけメディア分野では、その社会的機能(CSR)そのものが極めて「政治的」であるがゆえに、こうした政策提言への対応は原点の確認抜きには進められない。しかし、同時にウェッブ2.0時代のネット社会の成長の中で、テレビあるいはラジオが「融合領域」に踏み込むためには、何らかの制度的・システム的な枠組みの変更が必要なことも否定できない。「あり懇(竹中懇)」報告書について、その論理構造と問題点を考えつつ、放送からの対抗提言が必要だと思ったのもこのことに関わる。そう考えると、「総合的法体系」の売りである<大括り>=レイヤー型整理を、基本的に即ち「媒体と情報は不可分」というメディアの原点から批判し、<中括り>=「インフラ構造の流動化」の検討にコミットするという方向が選択肢として考えられる。果たしてそれが現実的に有効かどうかはともかく、少なくとも対抗提案の試みに値すると考えられる。
つまり、メディアの原点としての「政治的対応」と事業者としての「経済的」対応が必要なのであり、ということはあまりにも当たり前なのだが、しかしそれを自ら論理化することは実は容易なことではない。そのためにも「政治学」が大事なのである。メディアの「政治学」と「経済学」を二項対立的にしてはならない。このアポリアに向き合うことこそが、凡百の「融合論」を超えるためには不可避の行為なのだ。それにより、放送は他のメディアとの差異化を可能にする。放送局経営とはそういうものであり、それが放送局経営の哲学なのである。
序でにもう一つ。レイヤー化された情報(コンテンツ)規制の在り方は、「安心・安全」の思想によることが強く意識されているが、前回に触れたように「安心・安全」は何を根拠とするかは不明確のままである。誰もが反対しえない基準というのは、実は極めて危険な考え方といってよい。それは、言論とか情報の対極にあるものだ。とはいえ、ネット上に犯罪情報が氾濫しても構わないかといえば、そういうことではない。何が犯罪情報で何か有害情報かということを、ネット社会の情報責任のあり方の問題として考えることが必要なのであって、その上で具体的な対応を検討すべきではないか。その場合、それは情報規制なのか、それとも一般法の問題なのかなど、もう少し考える必要があるのだが、それにしても、このこととレイヤー化とは別の話なのだ。「総合的法体系=レイヤー型規制」の議論は個別の法律論ではないというが、それでは何故情報(コンテンツ)規制の切り口が「安心・安全」の制度化なのか。多分、それほどキチンとした議論はなかったのだろう。ここでも、原点の確認と対抗提案という二重の作業が求められているのである。
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