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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No122.
[テレビと映画]
-接近するほど相違が問われる-
2009.5.15

 TBS「調査情報」(No488/2009.5-6号ココをクリックが、「テレビ局と映画界の新たな関係」を特集している(「調査情報」の編集はTBSメディア総研、つまり当社)。その中で、斉藤守彦氏は、テレビ局の映画制作参入はメセナ的に始まって成功し(例『南極物語』)、テレビ局主導の企画製作に転化して(例『高校教師』)今に至っているが、その過程でテレビ局は映画をビジネスとするノウハウを蓄積し、一方映画界は企画製作力を放棄して配給業に専念するようになった、と指摘している(「テレビが得たもの、映画が失ったモノ」)。
 テレビ局が参入する以前から、映画が製作から撤退する傾向にあったのだが、テレビ局主導の映画がヒットすることで、この傾向はほとんど決定的になったといえるだろう。流通が生産を支配するのは映画界に限らないし、リスク回避という点でもそれはありうべき選択だと考えられるのだが、斉藤氏によれば映画界においてこうした事態が生じた背景には、テレビ局がお互いに日々戦っている熾烈なコンテンツ競争がテレビ局の企画力を鍛えてきたということに加えて、テレビメディアによるプロモーション効果が極めて大きい、という。これもその通りだと思う。但し、斉藤氏は、『おくりびと』のようにテレビ番組企画ではなく、かつマスメディアによるプロモーションとは違う回路のアピール効果により成功した例を挙げて、「テレビ局の映画製作は、これまでの勝ちパターンが通用しなくなる可能性がある」とも書いている。果たしてそうかどうか、ぼくにはそれを判断する力量はない。

 ところで、例の?「竹中懇」で通信と放送の融合が議論されたとき、竹中氏は「日本には何故タイムワーナーのようなメディア・コングロマリットが成立しないのか」という趣旨の発言をした。最近、民放関係のある研究会で何人かの研究者から「レイヤー型法体系がどうのこうのというより、あの竹中発言に意味があったはずだ」という指摘があり、「日本でその役目を果たしてきたのはテレビ局なのだから、産業政策の観点からテレビ局はあの発言を肯定的に受け止めるべきだったのではないか」という見方も示された。「日本にタイムワーナーを」というのは、市場規模も違うし事業構造も単純に比較するわけにはいかないのだから、「そんなことありえない」というのが、そのときの放送業界の反応だった。
 しかし、日本でテレビ局が映画進出で実績を上げていることは確かなのだから、タイムワーナーを目指せというような考えが出てきても不思議ではない。ただ、その時点で「融合論」を前提にした政策に対して極めて懐疑的であったことも事実であり、「了解、ではレイヤー型法体系で行きましょう」という話にならなかったのも当然だ。それは、メディアを産業政策の対象として捉えたときに抜け落ちるものの中に、メディアの本質があると考えたからである。そのことは、度々このノートでも触れた。しかし、テレビ局が映画を制作と流通の両面で重要なコンテンツ部門として認識し、今後もそこに参入しようとすることは間違いないだろう。だから、スケールはともかくコングロマリット型のビジネス展開は、法体系がどうなろうと継続するに違いない。

 先日、TBSの教育研修の「能力開発プログラム」を利用して映画製作に参加したTD(テクニカル・ディレクター=番組制作の技術の指揮統括をする職務)がその経験を社内報告会で話してくれた(*註)。彼は、実際にある劇場用映画(『風が強く吹いている』)の撮影カメラマンとして参加してきた。その経験談は大変生き生きとしていて、映画の現場がどのようにテレビと違うか、何故違うのかを語るとき、興奮の余韻が感じられてとても面白かった。例えば、カメラなどの機材テストの周到さ、フィルムマガジン交換のシビアーさ、絞りはファースト、セカンドはフォーカスマンという職能職階による仕事の厳しさ、合成用クロマキーの巨大さ、ナドナド、総じて映画のアルティザン的世界について、テレビの現場では経験できないシビアーさやスケールに対する憧憬あるいは羨望がある。映像制作者として当然の思いだろうし、その映画製作の経験はテレビの現場で活きるはずだ。
 だが、それはそうだとして、問題はこうであるはずだ。「映画に出来てテレビに出来ないこと、そしてテレビにできて映画に出来ないことは何か」、つまり「映画はやっぱりなかなか凄い」という話ではなくて、「テレビにしか出来ないことは何か」、それがテーマであるべきだ。

 映画とテレビがビジネスとして接近あるいは連動すればするほど、テレビはあるいは映画は、そもそも何を根拠にテレビであり映画であるのかが問われる。コンテンツという語で一括りにすることに気をつけよ!「調査情報」で『おくりびと』の脚本を書いた小山薫堂氏は「僕はテレビってやっぱり生放送が基本だと思うんですよね。・・・離れた場所の人と人が同時に同じものを観ているという連帯感、他人との繋がり。それがテレビの良さだと思うんです。対して映画は”作品対自分”という向かい合った関係性の方が大きい気がします」という(「いろいろな偶然が奇跡のように重なって」)。映画とテレビの関係を『洞窟的とテラス的」といった中沢新一さんの言葉を思い出す(『狩猟と編み籠』(No112参照)・・・ココをクリック)。媒体に固定されない情報、誰に対しても広く配信されるシステム、それがテレビの原点であろう。
 映画だけではなくネットビジネスも含んだコングロマリット化が進行すればするほど、「テレビジョンは何故テレビジョンか」という問が鮮明になり、テレビジョンでしか出来ないことが明らかになる。テレビジョンの可能性がそこにある。

  *註  TBS教育研修部の「能力開発プログラム」は、社員が社外の場で経験する機会を設け、応募提案を審査し、承認したものについて必要な措置を取るシステム。今回の映画製作への参加もその一環。教育研修部は新入社員や管理職教育などのルーティーン業務とは別に、異業種、行政、その他各分野の専門家・有識者などによるセミナーも頻繁に開催している。ほとんど毎週、セミナーなどが開かれ参加者も多い。昨秋の僕の社内講演もその一つだったが、企画の多様さと頻度の多さに感心した。仲間内の話しで恐縮。このギョーカイの内向き志向に刺激を与えることを意図していると思うのだが、「教育」の成果を定量化するのは難しい。



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