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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No132.
[放送法はいらない…?]
2009.10.15

 前回、旧満州紀行のことを書いたが、もう少しフォローしようと思い、「環」(vol.10・ 2002 藤原書店)の「特集・満州とは何だったのか」を読み返してみた。それはそれで、面白かったのだが、その中の「法という観念から見た満映の特殊性と甘粕正彦」(山口猛*註)が収められていて、そこに満州映画法との比較で日本の映画法が引用されている。それを読んでいるうちに、フト思い至ったことがある。以下は、その思い至ったことのメモである。

註 山口氏には「幻のキネマ 満映 -甘粕正彦と活動や群像-」(平凡社・1998年)という労作があり、そこでも満州映画法全文が資料として掲載されている。
映画法(1939年制定 1945年12月廃止)
第一条  「本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ
映画事業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス」

 法の目的・理念は、どの法においてもそれなりに立派なものであり、しかしそれにも拘らずこの法は検閲の法的根拠として映画の表現を抑圧した。戦後、映画・出版・新聞等については言論表現を個別に規制する法令はない。唯一、放送法だけが3条の2で規制項目を規定している。前にも書いたが(N0.129.ココをクリック)、放送法は他の法律に比べて極めて理念型の法である。放送法第1条の格調の高さをみても、それは明らかだ。そうした法の存在を放送事業者は当然のこととして受け止め、むしろそれを放送の存在理由として疑ってこなかったのではないか。

 だか、映画法第一条を読んだとき、卒然として「そもそも言論表現に関して、どのような理念の下であれ、法が存在することを疑うべきではないか」と思ったのだ。もちろん、放送法の理念は、憲法21条「言論表現の自由」を受けるものであることから、放送法が検閲等による表現の抑制を目的とするものでないことはいうまでもない。しかし、そうであってもなお言論に関する法が存在する理由は何か、と思うのだ。つまり、放送法がなくても、放送における言論表現の自由は保障されるべきであるからだ。
 そう考えると、というよりはそこまで論点を押し詰めることで、「総合的法体系」や独立行政委員会の何が問題なのかが見えてくるように思われる。ここから先は、論点の列挙である。

  1. こうは考えられないか。つまり、放送における言論・表現活動の規律は、あくまでも「自律」によるものであって、放送法3条の2 (公序良俗を害しない・政治的公平性・報道は事実を曲げない・対立する意見についての多角的論点の明示)も法的規制としてではなく、放送事業者の自律的規範するべきではないか。言論表現活動の規範は、放送事業者の番組編集基準の遵守、職業倫理の形成、視聴者からの批判への真摯な対応、などによって構成されるべきである。
 放送法制について言うならば、周波数監理としての免許は電波法による施設免許であり、言論の多様性は電波法の所有規制(言論の自由享有基準)に基づくことで用件は満たされる。「あまねく義務」も電波法の範囲であろう。したがって、放送法はなくても良い…のではないか。現に、新聞も、出版も、映画も、様々な経験を経つつ、自律的基準や綱領によって言論表現活動を行ってきたのだから。
     
  2. 「放送法はいらない」というのは、一つのしかし思考としての原理的な想定である。では、現に存在する放送法3条の2をどう考えるべきだろうか。放送の「社会的影響力」を根拠とするというのが一般的答えである。では、社会的影響力とは何か。いわゆる共時性(同時に多数が情報を共有する=リニアー+マス)ということだろう。そうだとして、それにより言論表現波活動は法的に規制されるべきものなのか。
 思うに、放送における規制の理由は、放送という無線媒体による共時的言論表現の危うさを、国家が先見的且つ先験的に承知していたからではないだろうか。放送を「公衆(不特定多数)によって直接受信されることも目的する無線による送信」と概念規定した途端に、国家はそれを危険物取り扱いに類するものと察知したのであろう。そこに、活字ジャーナリズムから引き継いだメディアの<批判機能>と、免許事業でとしての放送が国家的に要請される<秩序維持機能>との相反するベクトルにより構成されている<場>が存在する。この<場>に放送事業者としてどう向き合うか、そこに放送の自律と自立がある。こうした問題は、立法の趣旨や行政の意思の問題ではない。法とメディアとの構造的関係の問題である。
     
  3. もう一つの論点はこうである。
 放送における言論表現の自由は個人(私人)のそれとは違う。一般的には、放送において言論表現の自由は国民の知る権利に対応することで成立しているとされている。では、「それ故に」規制は必要なのだろうか。この「それ故に」は論理的に成立するかといえば、これも、新聞との比較で言えば成立しない。知る権利に対応して言論表現活動を行うのはマスコミであって放送とは限らない。ここでも、共時性(リニアー+マス)という構造が問題なのだ。
 いささか突き放した言い方をするならば、情報技術の進歩により「電波の有限希少性」が減少し、情報環境の変化により放送の「社会的影響力」が相対的に薄まったとしても、国家は放送について何らかの規制をし続けるであろう。そうだとしても、敢えてこういっておこう。危険物の取り扱いは、自ら責任を持つべきだと。放送に関する規制が最小限のものであったとしても、規制がある限りその「法としての運用」は<権力>により行われ、そして<権力>というものは、政治的意図だけではなく、自己増殖の原理によって必ずそれを拡大するものだということを承知しておくべきであるからだ。もちろん、<権力>は善でも悪でもなく、ただ<権力>として存在する。
     
  4. 放送にとっての問題はこうなる。
 放送における言論表現活動は、なによりも「自律」によって規律されなければならない。法によって規定されているからではなく、放送が伝えるべき情報は何か、そこにある問題は何か、について放送局自身が責任を明らかにすることである。こうした考え方を、放送局経営の最上位概念(経営哲学)として示すべきである。それがないと、行政指導等の措置についてもその根拠を問うこと放棄し、その場限りの対応になる。同様に、いわゆる不祥事への判断も第三者機関に委ねてしまうことにもなりかねない。BPOは、政府による放送への介入に抗して、放送のあり方を自主的に捉え返すために設立されたのであって、それ自体は放送事業者の自律を前提としなければ、その存在理由を失うのである。
     
  5. 放送の自律は自立と相関する。
 放送の自立のための自律であり、自律は自立の条件なのだ。では、放送における言論表現活動(番組制作)は、一律的な基準あるいはそのマニュアル化によって行われうるかといえば、そんなことはありえない。視聴者の反応があらかじめわかっているわけではない。制作者は常にリスクを背負っている。番組(情報)の提示による乱反射のような反応によって、初めて制作者の制作行為は一つのサイクルを形成し、それは次の制作行為の始まりになる。まことに、制作者とはその意味で実存的であるといえよう。制作者がこうしたリスク背負うことは法の外の問題である。これを法により規制してはならない。また、放送事業者は法による規制との関係で制作者のリスクを抑制してはならない。それは自主規制というものだ。
 放送法との関係で言うならば、この制作者が本来背負うべきリスクとバッティングするであろうのは、3条の2の「政治的公平性」であろう。政治的公平性は、「多角的論点」が個別番組としてではなく編成総体として機能していれば不要であろう。政治的公平性は放送が背負うリスクと視聴者のリアクションの緊張関係で成立する。法の運用権者が介在するべきではない。繰り返すが、制作者(=放送局)がリスクを背負うところに放送の自立があり、それは自律を条件とするのである。

 「総合的法体系」の答申にある、無線局免許と事業認定の二重構造は、再三指摘しているように編成への権力関与の余地を広げるという意味で、放送事業者としてはあくまで否定的であるべきだと考えるが、それもまた「自律」の根拠を自ら構築することが前提にある。また、独立行政法人による情報分野の行政のあり方についても、放送における「言論表現の自由」は、「本来的に法的規制は不要であるのではないか」という根本的問題意識にまでさかのぼって検証されるべきである。繰り返すが、BPOの重要性は、単にあらゆる行政機関から独立した存在だからというだけでなく、それが放送事業者の自律への正に不断の努力との関係で成立していることにあるのである。

 放送の「自立」と「自律」とは、かつて村木良彦氏が指摘した課題であるが、正しく放送が激変する情報環境の中で、自らの存在理由を明らかにするために捉え返すべきテーマであるといえるだろう。

 前回触れた満州問題については、少し粗雑なノートだったこともあり、これからも色々考えて見たいと思っている。それにしても、日本の近代を廻るまことに錯綜した様々な関係を前に、たじろぐような思いとつきせぬ興味が入り混じっている。また、このノートで書くことになるだろう。




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