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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No139.
[Digital再考・そして「日本文学史序説」]
2010.2.1

 「メイドインジャパンは生き残れるか?」(1月24日NHK総合)を見た。世界を席巻した日本の家電メーカーは、いまアジア各国にシェアー奪われ、その立場は急激に凋落しつつある。その中で、超高級テレビ受像機を開発し、次の市場に乗り出そうというメーカーの開発チームを取材した番組だ。日本のメーカーがシェアダウンした原因は、既によく知られているように、国内では人件費などが高コストであることもあるが、さらに本質的にはデジタル製品は製造技術の「質」あるいは「差」を無意味化したことにある。これもあらためていうほどのこととではない。番組をみながらフト思ったのは、以前に「デジタルとは何」だという「そもそも論」のことなどだった。

 「デジタル」とは、ラテン語で「指」を意味し、指を折って数を数えることをデジタルというようになったという、などということもそのとき知った。「なるほど」とひどく感心したことを憶えている。そのデジタル技術は、放送ではアナログに比べ情報の圧縮が効率的で、誤り訂正も容易だというのが最大のメリットなのだが、制作機材の面ではプロ用とコンシューマー用の区別が小さくなり、家庭用の映像機器やPC用の部品でも放送用の水準に近い映像が可能になっている。かつては、メーカーの放送機器営業部の担当者が局に開発商品を紹介し、テスト使用を繰り返して漸く採用に漕ぎつけるということが日常的であり、プロ用として採用されたものを簡素化し市販コストに低廉化して民生用商品として売り出すというプロセスがあった。だが、デジタルはこうしたプロセスを省略してしまう。もちろん、いまでもプロ用の機材、プロしか使わない機器はある。また、コンシューマーレベルの機器による機動性と効率性が放送の現場でプラスに働くこともある。だが、傾向としてはプロと一般という区別は減少しつつある。日本のメーカーが世界の各国を差別化してきた技術の優位性を喪失してきたことと類似の構造がそこにある。ただ、番組制作という分野では、人間系の作業の「質」、つまり<アナログ要素>の差は大きい。そこが、プロの存在理由であろう。

 さて、日本の製造業の優位性は失われつつあるとして、その<優位性>(例えば、技術の「質」)はどこから生まれたのだろう。「日本近代技術の形成・<伝統>と<近代>のダイナミクス」(中岡哲郎/朝日選書)によれば、「殖産興業」のためにお雇い外国人などにより欧米から技術を直輸入した官営工場に失敗が多く、日本人が蓄積してきたノウハウやシステムと結合して成長した事例が多いという(メディアノートNo67.「技術の社会科/近代と現代」ココをクリック)。そのノウハウやシステムを生んだ知的土壌とはなんだろう。
 そんなことを思いつつ「日本文学史序説」(加藤周一/ちくま学芸文庫・上下)を読んでいる。これは驚嘆すべき本で、これまで詠んでいなかったのが不覚だった(初出は、1974.〜「朝日ジャーナル連載」)。加藤周一という人の教養主義的のところに今までは馴染めないところもあったのだが、教養もここまでくると脱帽のほかはない。最近評判の内田樹の「日本辺境論」の底流にある要素が詳細かつ具体的にいくらでも登場してくる。どこか引用しようと思ったが切りがなくなりそうだ。繰り返されるキーワードは、非超越性、土着性、此岸性、日常性、具体性、文学的言語の二重性(シナ語と日本語の併用)、など。では一箇所だけ取り上げてみる。「超越的な価値を含まぬ世界観は、排他的ではない。故に新を採るのに、旧を廃する必要もない。しかも新思潮が外部から輸入された場合には、内発的変化の場合と異なり、土着の世界観の持続性がそのために害われるおそれは少なかったはずである。(略)文化的特権層が外国語を用いて新思潮を説いても、大衆の日本語の世界が、数世代のうちに根本的に変わるだろうと、想像することはできない。仏教の場合のように、外来思想が数世紀の間に大衆にまで浸透したとすれば、変わったのは大衆のほうではなくて、外来思想のほうであった」。その「土着的世界観の特徴」は「時間的には現在を、空間的には細部を強調する傾向」であるという。
 いま、「国際標準とガラパゴス化」など話題になっているが、この国でおきつつあることは何なのだろう。加藤周一さんのキーワードで語られる日本人の文化的・思想的精神構造そのものが変貌しようとしているのか。それとも、「(数世紀の後に)変わったのは外来思想のほうであった」ということなになるのか。「日本文学の歴史は、かくして多様化の歴史であり、そこでは多様性と統一性、変化と持続が微妙につり合って来たのである」と書かれている。その「微妙なつり合い」こそが、日本の製造技術の優位性を形成してきたものと、潜在的な意識や感性において共通するように思えるのである。
 いまデジタル技術によって進行中の「優位性」の崩壊は産業の話しであって、文化の世界ではその「微妙なつり合い」がこれからも続くと考えられるだろうか。どうもそうではないような気がする。では、それはグローバル化の中で崩壊するのだろうか。そうだとすればそこに残されるのはどのような光景だろう。加藤さんは、これまでに日本文学の歴史には四つの転換点があったとしているが、「いま」は第五の転換点であることは間違いないように思われる。デジタルの思想的意味はこれからも問われ続けるであろう。それは技術の文化論であり、またメディアの哲学の問題である。

 一つのテレビ番組から受け取った情報から、かくのごとく連鎖的かつ乱反射的に様々な思いが引き出されてしまった。それだけでも、それは私にとって優れて番組であったといえるだろう。




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