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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No142.
[「将来研」・補遺]
-<危うさ>こそ、放送の可能性の原点-
2010.3.15

 「放送の将来像と法制度研究会」(以下、「将来研」)の報告書がまとめられ、3月24日(水)に報告会をかねたシンポジゥムで公表される。2年間の作業を終えて少し時間が空き、「報告書」という形になったものを眺めてみると、「何で、この論点に踏み込まなかったのだろう」とか「どうして、こういう取りまとめにしたのだろう」とか、いくつか思い至ることがある。今回は、「将来研」の議論の外に置かれたことなどについて書いておきたい。そのうちのいくつかはシンポジゥムのパネラーの方との打合せで気がついたこともある。パネルディスカッションでフォローしたいと思っている。尚、シンポジゥムの概要については、民放連のホームページを参照して頂きたい。

 「放送の将来像」を想定した場合、その上限は「大発展・大飛躍」であり、下限は「大衰退・大没落」である(・・・!「大貧民・大富豪」って遊びがあったのを思い出した)。当然のことながら、単純にどっちかと言う議論にはならないのだから、その幅の何処に放送の将来があるかというのが検討のスタンスになる。感覚的に言えば、中央より下限寄りといったところだ。何故か?
 そもそも「放送の将来像」というテーマが設定されるのは、ネット=ウェッブ上の情報と人々との関係が著しく密度の濃いものになり、多層的な情報空間が成立しつつあるからだ。それぞれの情報空間は相互に影響されつつも、その関係自体が流動的である。放送は、もともと自分だけが中心であり、これからもそうありたいと思って来たのである。もちろん、それは無理だと言うことを、放送は承知し始めている。そうなると、そうした情報環境で放送そのものの存在理由は何か、と問うとことが検討の基本になるのも当然だ。つまり、これまた感覚的に言えば、どちらかと言えばディフェンスドを固めてからカウンターへという戦法に近い。「将来像」という時間軸的想定を議論する場でありながら、作業が掘り下げ型になったのは、そういう意識があったからだ。だから、取りまとめられた「報告書」は基本的・原則的確認が多く、「放送の将来像が知りたい」という方々は「何だ、将来が分かると思ったのに、それは何も書いてないじゃないか」と不満を言うだろう。先回りしてお詫びをしておくことにする。
 さて、それでは「放送に未来はないのか」ということなのだが、これについても二つの軸がある。一つは、放送というメディアの可能性であり、もう一つはビジネス(あるいは産業)としての放送である。今回は前者の検討が先行し、その後で後者に関する議論に移った。これも、「放送の存在理由」ということが原点だからである。しかし、前者はキー局もローカル局も同一のロジックが成立するが、後者は条件がひどく違う。
 放送というメディアシステムは、近い将来においても有力な社会システムとして機能する、というのが「将来研」委員全員の認識であり期待でもあった。この点は、急速に変貌しつつある紙媒体の世界と少し違うようだ。もちろん、状況によってはメディアとしての放送(従来の定義としての、不特定多数を対象にした無線による送信)は、衰退・没落することだってないわけではないだろう。だが、思うに、放送の<共時性>という特性は、電子メディアによる紙媒体の駆逐?とは異なる展開を示すのではないか。それは、放送とネット=ウェッブの方が、遥かに親和性が高いと考えられるからである。「報告書」に沿って言えば、「インターネットは最良の友」なのだ。それは、「べき論」であるとともに、放送により広範に撒き散らされた(=Broadcast)情報が、これまでは家族・職場・地域・知人という関係でコミュニケーションの<場=公共空間>を形成してきたのだが、いまやそれはネット=ウェッブ上のコミュニケーションの<場>に移行しうるからでもある。問題は、そうしたコミュニケーションを成立せしめるだけの問題提起能力を放送が持ちうるか、である。この点が「報告書」の一つの柱である。その上で、ネット=ウェッブ上の情報の<タダ化>と広告放送との関係も悪くないはずだし、それはビジネスとしての放送の一つの可能性を示しているのだが、「報告書」はこれについて具体的に踏み込めなかった。
 そこから、ビジネスとしての放送の将来像へと話は移る。
 民放は広告を収入源にしているが、マス媒体広告(表現型)の効果はもはや限界であり、ネット=ウェッブ型(サービス利用型)広告が商品市場における告知効果で勝っているという分析が登場しつつある(メディアノート前号No141.参照ココをクリック)。そうだとすると、放送事業は衰退傾向にあると見られるかというと、かなりの関係者?(「将来研」委員も含め)は、放送局の強みはコンテンツ制作能力であるから、「放送事業」の将来像は発展系を想定できると言う。こうした展開が滞っているのは、ネット系ベンチャービジネスの成功例が少ないからであると指摘する向きも多い。放送はビジネスモデルとして稀有な成功例だから、放送が自ら進んでベンチャーを目指すリスクは負いにくいということも、共通認識として認められる。
 どうも変だ。放送はコンテンツ能力は高いのだが、それを活かす新市場を自ら創出するリスクは負わず、それはベンチャーの成功例に乗っかるというのがベストだが、肝心のベンチャーがなかなか成功してくれない、と言う図式になるのだが、それでいいのだろうか。もちろん、放送側だけに問題があるわけではない。
 ひと頃、「日本に何故タイムワーナーが存在しないのか」という議論があった。それは、日本ではテレビ局がそのポジションに一番近いのだから、放送にとらわれずビジネス展開をすれば良い、と言う認識によるものだった。その時、ほんの数年前の話だが、ハード・ソフト分離論への警戒感から放送事業者は俄かにはこの話に乗れないと思ったのだった。けれども、大雑把な戦略論でいえば、それは「アリ」なのである。では、放送業界のその時のリアクションは間違っていたのだろうか。そうではない。
 「タイムワーナー論」の致命的欠陥は、放送のメディアシステムについて、本質論のレベルで全くリアルな認識(例えば、メディアと権力の関係)を欠落させていたのであって、それについての放送側の反応はそれて良かったのだ。言論・表現に関わる制度・政策について、私たちは過剰なほど鋭敏であるべきなのである。では、「タイムワーナー論」が戦略的に「アリ」というのは何故か。放送事業者のビジネスとしては、それしかないのである。あらゆる情報を集約し、メディアに対応して編集・加工すること以外に、私たちは生きる術がないのである。
 したがって、問題はこうなる。放送メディアが社会システムとして有効であるためには、「放送とは何か」、「放送番組における表現とは何か」に徹底的に拘り、その上でそれを包含する形でビジネスとしての放送至上主義から発展的に離脱する、これが放送ビジネスの将来像であろう。そのための試行錯誤の時期がもう暫らく続く。そのことを、放送事業者は既に知っているのだが、その道筋が見えないのが実態だと言えよう。
 では、そのときローカル局はどうなるのか。
 現在のローカル局の経営条件、即ち県域と言う市場規模と1県4波(=4事業者)という政策方針の下では発展性、というより継続性に限界がある。とすれば、誰も否定し得ない「放送の地域性」と「言論の多様性」いう基本を担保しつつ、ローカル局の経営条件をどう考えるかという問題に行き着く。「将来研」のメンバーにとって、地方局視察の意味は大きかった。そのことは「報告書」に書き込まれている。そうであればこそ、地方の放送局の存在理由と経営条件を両立させる<解>として、県域免許を前提にした全国4波化方針の見直しは必須ではないかという認識に至る。その延長に、地元情報を「同時再送信」も含めて他メディアに配信することにより、放送情報への接触機会を最大化する必要についても言及した。それらは、今までギョーカイ内ではタブーに近いテーマであるが、敢えて問題提起することで放送事業者自身が「将来」を選択することを求めたのだ。ここまでは「報告書」に書いてある。その先に何があるかといえば、先にキー局とローカル局では、ビジネスとしての放送を考える条件に違いがあると書いたが、本当にそうか。つまり、キー局あるいはネットワークレベルでの統合・再編はナイと言い切れるか、という問題意識につながる。
 もう一つ、キーとローカルについて触れておきたい。
 先日、「放送批評懇談会」のシンポジゥムの一つのパートで「地方局の未来を考える」のモデレーターを努めた。シンクタンクのパネラーから「地域の民主主義のために地方民放の存在は不可欠であり、そのためには[1局2波]という選択が課題だ」という問題提起があった。これに対して、ローカル局の経営者からは、ローカル局の存在理由を示すためにどのような努力をしているか、という発言が続き、議論はなかなか噛み合わまま終始した。想定していたとはいえ、またモデレーターとして議論の組立ての不手際を反省しつつ、この「スレ違い」こそが実態なのだと痛感した。
 その前の第1パートで総務大臣を交えた放送に関する制度・政策が語られ、第2パートではウェッブによる情報ビジネスが議論されていたのだが、ローカル局からは<遠い話>あるいは<困った話>と受け取られている気配があった。ここでも、<スレ違い>が生じているようだ。
 これを「ローカルは現実の変化を見ていない」と片付けてはいけない。ローカル局経営者たちが語ったことこそ、ローカル経営の原点なのである。ローカル局の経営の必死さを認めたうえで、進行中の変化の中でどういう選択肢があるかを示すのも、キー局の仕事なのだと思う。ローカル局の経営者に「ネット=ウェッブとテレビの情報空間の関係を経営的にどう対応するか」と直裁に聞いて、分かりやすい答えが出るはずがない。それは、ネットビジネスが東京中心にしか登場しないのと相似形なのである。東京局の役割は、系列ネットワークのキー局というだけでなく、放送事業の次の段階を想定した選択肢をローカルに示すことにもあるのである。

 「将来研」における議論と「報告書」作成作業の中で、色んな顔が浮かんだ。親しいローカル局の経営者たち、ローカル制作の切ないほど必死なドキュメンタリー制作者、キー局のメディア担当スタッフ、局やプロダクションの制作現場で「放送番組」を作り続けている人たち、先駆的テレビ論を提唱した諸先輩、「融合論」的観点から放送ビジネスに提言した学者・研究者、放送行政を担ってきた官僚、などなど。

 今、私たちは歴史的転換点に立っている。何らかの事情(既にそのいくつかは想定されつつある)で現政権に変化が生じようとも、政権交代の意味は変わらない。その意味は、戦後過程の転換、日本近代の転換、冷戦構造崩壊後の世界史的転換、資本主義経済の転換、そして情報技術の進化による知と文化の転換、などなどにわたる。そうしたパースペクティブの中で、放送がどうなるかというテーマについて、充分な議論をしきれなかったことが、心残りであるが、それはまた継続するテーマとして残されたと思うしかない。最早それは私の手を離れた、と。「放送の将来像」を考えるいくつかのキーワードを提示したことが、「将来研」の仕事だったと、今にして思っている。

 そして、あらためて思うのは、放送のライブ性、瞬時にして情報空間を形成する放送の危うさを、先験的に国家は察知したところから免許制度が生まれたとするならば、その危うさはいまも放送の手の中に残されている。そして、その<危うさ>こそ、放送の可能性の原点だということである。




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