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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No138.
[<孤独な視聴者>・「龍馬伝」・地方局制作]
-10年代の始まりに出会った言葉など-
2010.1.15

 今年は、4日が仕事始めという例年よりも早めの立ち上がり状況である。出社して年末からたまっていた雑誌、新聞、資料などをざっと目を通した。その中で、いろんな意味で注目したことについてノートしてみることにする。

[I]

 まず、『「孤独なテレビ視聴」と公共放送の課題』(放送研究と調査・2010.1.)は、冒頭で「BBCのウェブサイトは、イギリスでも第3位のサイトだが、利用するたぴに私は完全に一人きりで見ているように感じてしまう」という、BBCのインターネット戦略担当役員の感想を引用し、現在世界の公共放送は「公共放送への接触率をいかに拡大するか」、そして「テレビ視聴における共有体験をどう担保するか」という「両立の難しい二つの命題に同時に向き合わなければならなくなっている」という問題提起をしている。これは、公共放送のみならず民間放送が極めて成熟している日本の放送においては、民放の課題でもある。
 そこからこの論考は、日本、イギリス、韓国の調査を基に、日本の視聴者はとりわけ「孤独なテレビ視聴」の傾向(時間の共有体験=共時感覚の欠如)が強く、それは「政治・社会意識」の低さと相関性が強い、と分析している。放送メディアは、この共時感覚によって成立する「社会的時間」の生成によって人々の一体感や社会的アイデンティティーを成立させてきた反面、結果として社会的な共同性や連帯意識を解体させてきたのではないか、という問題意識を示し、それは「社会関係資本」*註の減少の原因としても結果としても関係するという観点が、今後の「テレビ視聴と共時感覚や『政治・社会意識』の両義性を考える上できわめて重要な意味を持つように思われる」としている。その上で、(公共放送本来の存在意義に照らすならば)デジタル放送やインターネット等、新しい技術を活用したサービスにおいても、セグメント化された視聴者や利用者を対象にしたサービスだけではなく、より広範な人々に共有体験や社会的時間をもたらすようなモデルが模索されるべきであり、異なる集団間を架橋する「連結型社会関係資本」をどう形成するという視点が重要だと結んでいる。

  *註: 本稿で社会関係資本とは「相互利益のための調整と協力を容易にする、ネットワーク、規範、社会的信頼のような社会的組織の特徴を表す概念」(パットナム)が引用されている。

 なかなか興味深く読んだのだが、若干の疑問ないしは不満、あるいはここから展開されるべき問題があるように思った。

(1) 冒頭のBBCの役員の発言は<ウェッブサイトでテレビを見ると共時感覚が失われる>と受け取れるのだが、そうだとするとストリーミング型の同時配信によるテレビ接触率確保は、放送メディアにとって<共時性の確保>のためのテーマとして成立するように思えるのだが、それで良いのか。また、ウェッブサイトによる視聴が<孤独>だとして、それと<テレビにおける「孤独な視聴」とはどう関係するのか>ということにつながるはずなのだが、論考はその点に踏み込んでいない。だが、実はテレビ視聴とネット(ウェブ)によるコミュニケーションについて、<共時性>あるいは本稿に出てくる別の用語でいえば「時間の横糸」、私なりにいえば<時間の空間性>が「どのような関係におかれているのか」こそ、「そこが知りたい」テーマなのである。
(2) この論考は「『日・韓・英 公共放送と人々のコミュニケーションに関する国際比較ウェブ調査』の2次分析から」というサブタイトルであるが、この調査において(1)のような点を意識した設問が用意されていたのだろうか。「日本におけるテレビ視聴が(少なくともインターネット利用者の間では)、他人とのコミュニケーション的関連から切り離され、また他人と同じ時間を共有する感覚を生み出しにくくなっている」という記述があるが、これはこの調査のどのデータを基にしているのだろうか(下線は引用者)
(3) 放送メディアが一方で「一体感やアイデンティティーを供給」し、他方で「社会的共同性や連帯意識を解体」してきたことについて、学説的あるいは概念的な分析論証はさらに進められであろうが、それと同時に社会史的実証による問題提起も必要であろう。例えば、(以下相当乱暴な提起だと思うが)日本的共同体(日本的「社会関係資本?」)の典型としての「ムラ構造」は、農村の変容としてではなく意識の問題としていえば、1970年代に終了した「集団就職型人口移動」による都市部への<ムラ>の移動に継承されてきたと考えられるが、これについて(その当否の検証とともに)テレビ視聴の意識変化との関係をフォローすることで何かが見えてくるのではないか。
(4) それとオーバーラップしながら登場する<現代的疎外>状況、例えばテレビゲーム型バーチャル感覚、あるいはウォークマンの普及による風景の変化、ケータイによる情報意識の関係(他にももっと適当な事例があるはずだ)、そしてそれらの延長にある<オタク>的状況など、「孤独な視聴者」の問題は「公共放送」との関係に閉じ込めるべきではなかろう。つまり、日本が<ムラ>的共同意識の解体後、市民的意識空間を形成できなかった(と思うのだが)ことと、日本の<孤独な視聴>は相関するのではないか。そうだとして、この論点はイギリスとの比較において意味があるかもしれないが、では韓国とはどうか。日本における70年を境にした政治の季節の終焉と分断国が継続する韓国の戦後課程の相違がそこに表れているのかどうか。これは、東アジアの現代思想と深く関わる論点ではないだろうか。こうした論点と放送メディアはどう関係してきたのだろう。それが問題だ。
(5) 付け加えれば、高齢者の<孤独な視聴>と若年層のそれとはどういう違いがあるのか、などなど。
(6) ともあれ、正月明けから色々考えてしまったという意味で、今年はなかなか面白いスタートであった。
[II]

 暮れに「坂の上の雲」を見たし、年明けには「龍馬伝」の初回も見た。脚本も演出も華麗なキャスティングも相当なレベルで、NHKの力の入れように感嘆した。裏読み深読みをすれば、番組関係で尾を引いている従軍慰安婦問題や台湾植民地統治問題を抱えつつ、NHKの王道はこれだと示そうとしているようにも見える。もちろん、そこに直接的因果関係はあろうはずもないが、個別の問題を踏み越えて「公共放送の姿勢」を示したいのであろうか。
 [I]との関係で言えば、NHK的<共時性>の作り方の問題である。前掲の論考の言葉を借りれば、『紅白歌合戦』やワールドカップ・サッカーの視聴行動は「放送される内容そのものに興味があるというよりも、むしろ放送を介して存在保障される社会的時間を共有するための行動として、理解することが出来る」、「こうした社会的時間の共有は、他者と私が繋がっている共同意識を保障するだけでなく、それを共有する人が多いほど、社会的時間が循環して、強まっていく特徴を持つ」ということになる。
 しかし、これは公共放送に限らない。そして、それこそが放送メディアの危うさでもある。何故ならば、近代のグラフィズムが経験した<大衆のまなざしの支配>(「肖像の中の権力」柏木博)こそ、マスメディアのもう一つのDNAだからだ。マスメディアにおいて、それはほとんど不可避である。視聴率とは、そのような意味を持つ。まして、放送メディアが包摂しきれないほど価値観が多様化したとき、それでもなお放送メディアによって共有体験を構成しようとするとき、そこに何が起こりうるかといえば、体験の共有(その典型としての歴史意識)の人為的創出である。そのことを承知しておくことで、かろうじて放送の公共性を自立的なものにすることが可能になる。
 「坂の上の雲」や「龍馬伝」は、日本近代のナショナリズムの形成とヒーローの登場を前提にしなければ成立しない。それは、「紅白」や「ワールドカップ」の視聴行動より直接的である。それにもかかわらず、<共時性>と<大衆のまなざしの支配>の関係を、公共放送としてではなく放送の公共性>の問題として、どれほど制作者が意識として客体化しうるのか。別の言い方をすれば、視聴者目線と制作者の目線は同化しないのであって、そこにこそ制作者の存在理由があるのである。
 朝日新聞1月3日のテレビ欄「試写室」は、「龍馬伝」をとりあげ「変化への期待感、高揚感がドラマの世界に満ちている。(龍馬が岩崎弥太郎に語りかける姿に)筆者はオバマ大統領の就任演説を重ねて見た。身近にある不条理を見つめ、変えたいと願う龍馬の情熱は、我々のころの中の『英雄』を呼び覚ますかもしれない」と書いている。この記者が「龍馬伝」を見て個人的に何を思おうと勝手だが、こうした認識(あるいは感覚)でテレビ状況を批評するのは不毛である。ノー天気といっても良い。作家と批評の関係で言えば、こうした批評は作家を育てない。NHKの制作者は、あるいは理事たちは、この記事をどう読んだのだろう。喜んだとすれば、それもまた頽廃ではなかろうか。

[III]

 「龍馬伝」に関してもう一つ。こちらはまったく別のアングルからのコメントである。読売新聞編集委員の鈴木嘉一氏は、地デジ完全移行について「民間放送」(2010.1.3.)紙上で次のように書いている。「(デジタルテレビで見ると)スポーツ中継はもとより映画やドラマ、ドキュメンタリーは大画面で味わう高画質の迫力は明らに増した。その高画質にしても、鮮明さだけを売り物にする時期は過ぎた。今年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の1回目を試写したところ、評判を呼んだ『ハゲタカ』の大友啓史ディレクターが色調を押さえ、フィルムを思わせる独特の質感で撮り・・・」
 1980年代半ば、NHKからHDTV(当時はハイビジョンという名称はなかった)を解放しようと、TBSは独自に様々な試みをしていた。そのときのテーマを一言で言えば、「再現力ではなく表現力」ということだった。当時まだハイビジョン機材の弱点だった<黒>の表現や逆光の映像なども試みた。画質評価を期待した人たちはイヤな顔をしていた。「ハイビジョンは良く見える」というのは当たり前なので、「何を見せるか」ではなくて「何を見せないか」が大事なのだ、ワイドな画面を生かすためには奥行き間が鍵だ、そのために照明と音響はどうするかなどと議論していた。これをBending Effect(捻じ曲げ効果)といったりして、一部では「捻じ曲げ族」などと呼ばれていた。そこから、「芸術家の食卓」「陰翳礼賛」などの初期の実験的傑作(今でも傑作だと思っている)が生まれた。その後、ハイビジョンが歩んだ道は結局<普通のテレビ>になる道で、テレビ映像の現在の開発テーマは3Dということになっている。しかし、鈴木氏の指摘するとおりハイビジョンは<普通のテレビ>となりつつも、それは<進化した普通のテレビ>として制作者の表現の幅を広げている。あれから20年も経ってしまったのだ。

[IV]

 昨年末のことだが、「SBCスペシャル・残され刻〜満州移民 最後の証言〜」(信越放送制作)のDVDをディレクターの手塚さんから送っていただいて見た。「地方の時代映像祭」で入賞した番組で、是非見たいと思っていたのだった。
 長野県下伊那の河野村(現豊丘村)から、戦争末期の1944年に開拓団が満州に渡り、敗戦によりその多くが集団自決した。その開拓団派遣の経緯を村長の日記を基に明らかにし、また集団自決の状況を数少ない生存者の言葉や聞き取り調査のテープによって語られている。
 ドキュメンタリーの構成や方法として物足りないところがないではないが、ローカル局が地元の「戦争体験」、それも集団自決では他に方法がなく大人が子どもたちを絞殺するなど、きわめて過酷なそれを取材し番組として記録するという行為は貴重である。それこそ、NHKスペシャルや大河ドラマラマの何万分の一?かの制作費とスタッフで制作するのであって、そのことは否応なく作品に反映してしまう。それでも、ローカル局が番組を作るということは何なのか、どこに意味があるのか、ということが切々と伝わってくる。このことは、メディアノートNo135.で静岡放送(SBS)制作の「日本兵サカイタイゾーの真実」についても書いた。こうした企画を今後も(特に、経営環境が厳しくなる状況で)実現させるためには、キー局も含んだ共同制作体制が成立し、民放ネットワークを通して放送されるべきだろう。年末に、「放送の将来像と法制度研究会」(民放連研究所)で地方局のあり方についての議論をする機会があった。2年間の活動で大学教授や研究者たち各委員も、ローカル局問題についての関心が深まっていた。ローカル局の意義と経営のあり方についてより広く認識されることは、今後の放送を考える<鍵>である。

[V]

 今年頂いた年賀状から、心に留まるいくつかの言葉。

「快楽こそ人生の目的である。その快楽とは、身体に苦痛がないことと、魂に動揺がないことにほかならない。 エピクロス」 高校の同級生(『快楽の哲学』執筆中とか)

「世界の大変動があってから20年、ずっと浮遊している感じがしますが、それでも人は生きている」 大学時代の友人(「ベルリンの壁崩壊」とはなんだったのか、いまでも僕たちにはそういう感覚が何処かにある)

「新しいもの見つけましょう」 TBS同期入社で制作会社会長(発見は常に刺激的だ)

「貴兄の託宣がなつかしい」 TBSの先輩(つまり、随分生意気なことを言い散らかしていたということ)

「昨年は、素晴らしい中国旅行の思い出アルバムを、とても楽しく拝見させていただきました」 アルバム「大連・瀋陽・長春紀行」を見た知人(相当力の入った写真と文の構成なので疲れた。だから、こういう言葉は素直に嬉しい。クリエイティブな仕事をしている人なので殊更。メディアノートNo131.参照。その100倍くらいの記録)

 年末のある夕刻、ベランダに出てみると凄い夕焼けだった。
 東南は闇が空を包もうとし、北西を見ると青さの残る空の雲が薄桃色に染まり始めている。
 一つの空に二つの時間が交じり合っていた。思わず写真を撮った。

 



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