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メディア・ノート
    Maekawa Memo
MM119.
[テレビ的行為とは何か-放送人の世界・村木良彦-]
2009.4.1

 第11回「放送人の世界/村木良彦〜人と作品〜」(主催 放送人の会・放送番組センター 3/21)に参加した。この集まりは、これまでに制作された放送番組について、制作者が自らそれについて語るという形式で行われてきたのだが、村木さんは昨年1月に亡くなられている。そこで、司会の今野勉さんが、村木作品についてコメントしながら、当時村木さんがテレビについて何を、どう考えていたかを語る相手として、ぼくが選ばれたというわけだ。その訳は、村木さんが番組制作から引き離されていた一年半、ぼくが村木さんと関わっていたからで、それについては「メディアノート」No91,92,93.及び108,109.を参照して頂きたい。
 前の週(3/14)に「わたしのトウィギー-‘67夏東京-」「フーテン・ピロ」「クール・トウキョウ-‘67秋-」の上映と今野さんの解説があり、ぼくも久々に村木作品を観たのだった。21日は「わたしの火山」(1968.1.OA)と「トリニティーの記録〜心優しい人々が何故原爆を作ったのか〜」(ハイビジョンスペシャル 2001.NHK)が上映された。「トリニティーの記録」は、時代も、そして制作者としての村木さんの立場も、他の番組と性質を異にするのでここでは措くことにするが、前4作品は村木さんが集中的にドキュメンタリーを制作していた時期のものだ。1967年は10番組、「わたしの火山」はOAが68年1月11日なので制作は67年と考えると11番組、この中にはFilm取材もあれば、VTRによる中継的手法のもの、そして<生>放送もある。そして、「わたしの火山」にスポンサーからクレームがつき、村木さんは3月に配転される(・・・ということになっているのだが、その背景については今野さんが「テレビの青春」NTT出版・3月末刊行、で村木さん自身の推測も含めて詳しく触れている)。そして、村木・萩元の配転、成田空港取材についての処分、田英夫降板が錯綜した<TBS闘争>は敗北し(これについても、前掲「メディアノート」.を参照)、1970年2月にテレビマンユニオンが結成されるのだが、その間、村木さんは何を考えていたのかを語るのが当日ぼくの役回りだ(と理解した)。何しろ、ぼくは制作者村木良彦とは何も仕事をしていないのだから・・・。
 村木氏が当時テレビジョンについて書いている「ぼくのテレビジョン」(田畑書店・1971年)などを再読した。また、テレビマンユニオンのご好意で「村木良彦ロングインタビュー」(1997.6・約5時間.)を観ることが出来た。以下は、そうした作業を基に作成した、当日の手元用メモの改訂版である。(「」は村木さんの文章 ■は前川のコメント)

メモ[村木良彦のメディア思想形成の軌跡]
−1968年〜1970年の村木良彦−

1967.12. 「最後に質問します。あなたにとってテレビジョンとは何ですか」(「ぼくのテレビジョン、あるいはテレビジョン自身のための広告」・三田文学)
■ 「テレビジョンとは何か」という「外」に向けての、最初の問かけか?
1968.1. 「私の火山」OA
1968.3.5 村木配転発令 TBS闘争の原点
■  何故村木良彦は配転させられたのか?
■  「陽のあたる坂道」と「横浜事件」(今野勉「テレビの青春」参照)
ドラマ・ディレクターとしての力量・期待
ドキュメンタリー・ディレクターとしての評価
■  どの番組制作においても、村木良彦は常に実験的であろうとしてきた。
「テレビジョンとは何か」と問いつつ、現場的行為の中でその答えを見つけようとし、またそこにテレビジョンの大きな可能性を見ていた。
1986.3.10. 成田でTBS取材車が空港反対同盟員を同乗
1968.3.27. 田英夫、ニュースコープのキャスター辞任 TBS闘争の“大衆化”?
*職場集会・声明・団交、スト、など
1968.4.24. “ティーチイン”中断”(詳細は「お前はただの現在に過ぎない」参照)
1968.5.13. 10波スト回避 TBS闘争事実上の敗北
1968.5. 「テレビジョンとのかかわりあい時間(=歴史)であると知ったときから、ぼくは常に異端であろうとした。異端は仮説を必要としている。テレビジョンは異端を必要としている」(「テレビジョンは異端を必要としている」(三田新聞)
■  萩元晴彦との出会い(1966)=「テレビは時間である」
=村木良彦のテレビ論の進化
=先駆的ディレクターから異端への自覚?
■  では、「正統」とは何か?古典的なあるいは既成の方法・テレビ観へのアンチテーゼの提起こそ、テレビ的であることを意味していることを察知
「巨大な時間の流れ中で、個々の番組やスポットCMは一つの点にしか過ぎない。しかし、その<点>はテレビジョンの伝達・表現内容の価値転換の契機を内在させ得る発火点としての<点>である」(同)
■  テレビは、番組の総和ではなく「個々の番組は夫々にテレビ番組としての自己を主張しつつ、しかしテレビは総体としてメディアである」と捉えること、そこから[村木テレビ論]の基本認識が形成される
「<アクションフィルミング>と<コラージュ>の方法、および<場>−テレビ的現実の創造の三点に固執してテレビジョンを考えてきた・・・三つの方法によるこれらの作品の軌跡の中に1967年から68年にかけてのぼくの状況感覚がある」(同)
■  [テレビ=時間]という認識とFilmドキュメントという方法の接点を、こうした論理で構築しようとしていた。総体としてのテレビジョンと自分が表現者として関わる<点>の位置づけ。そこにディレクターと組織と状況の関係を凝縮させようとする意図が込められている。
「(・・・EVRの登場・・・)遠からずやってくるこの時点では、生放送以外に放送局の基本的な成立基盤は失われるのではないだろうか。あるいはそのときはじめてテレビジョンはテレビ本来の機能を多少取り戻すのかも知れない」(同) 註:EVRはエレクトロニック・ビデオ・レコーダ=家庭用録画機のことと思われる。
■  エレクトロニクス技術とテレビジョンの関係を見抜いている。
=TVの近未来への視点を既に手にしていた。
=テレビジョンにおける、技術の意味の考察は、その後も持続する
 ・・・ハイビジョンからビデオジャーナリズムに至る作業。
1968.5. TBS闘争中間総括メモ
1968.6. 村木指名スト解除 スタジオ課でサボータジュ闘争開始
1968.12.28. 「TBS闘争敗北後の諸情況を巡って」(「組合有志のパンフレット」)
*この間、社内外のメディア情況に関するシンポジゥム、パネルディスカッションに参加。NET労組、日放労長崎分会、東映助監督組合、全共闘などと交流
1969.1. 「・・・時には二歳になったわが娘と『恋の季節』を唄ってテレビジョンの可能性と不可能性の間を思い・・・」
「ぼくにとってテレビジョンとは、テレビジョンとは何かを問うことである。ぼくと僕以外の現実との<関係>を変える<方法>である。・・・テレビジョンとはなにか・・・さしあたって、この問いかけは三つの側面を持つ。第一に<報道する>或いは<表現する>とはなにか、第二に<闘う>とは何か、第三に放送企業における<労働>とは何か・・・人間の総体としての<想像力>戦いの問題」としてとらえかえす・・・」(「クローズアップとロングショット」(組合有志のパンフレット・「ぼくのテレビジョン」に再掲)
*「・・・私たちは今、己とテレビジョンとがいかなる関係におかれているかという一つの論理を獲得することが、前衛党を一つつくるよりも価値あることだと考えてよいのではないだろうか」(同 「混沌(カオス)を凝視めて」・前川)
■  メディア論的思考=「テレビジョンとは何か」という問いは、政治的思考に先行する。
しかし、この時点で<闘う>こと、あるいは放送企業における<労働>とは何を意味するかは、村木本人にとっても不透明のままである?
労働組合をどう認識していたか?「組織論」「運動論」について?
・・・これらについての「TBS闘争」における曖昧さは、「明石ハンスト問題」で明確に断ち切られる。
大学闘争とノンセクト・ラジカルの登場は、一定の影響があったと考えてよい。
1969.3. 『お前はただの現在に過ぎない』(田畑書店)
1969.3. 「私たちが、いや私が考えているテレビジョンとは、一つのテーマや観念や思想をテレビで表現することではなく、テレビジョンをつくることそのものが一つの思想であるようなあり方である」「今月のキッククリティック」(映画評論)
1969.6. 「あれから一年、<(ティーチ・インの-前川註)中断を許した私たち>は、この一年間何をしてきたか、何をしているか。いま放送のあり方は大きく変化しようとしている・・・それに対応する放送の担い手たちのテレビ論はどう進んだのか」「“中断を許した私たち”は何をしてきたか」(映画評論6月号)
1968.8. 「私にとってのテレビジョンとは、私と私以外の他者との関係を変革するような<方法>である。<方法>こそテーマ。」(「放送労働者の原点=26の断によるノート」・村木/前川共同制作 月刊労働問題)
*「テレビジョンと私との関係の論理として、テレビジョンが私を拒絶していることを確かめなければならないのかもしれない。<私>と<テレピジョン>とはそのとき、ようやく真にかかわりうるのだろうかー」(同・前川)
1969.8.25. 明石闘争 TBS劇団員・明石一契約解除を不当として局内でハンスト
村木・前川による「共同意思表示」
■  原点としての<個>の確認と、<関係性としてのテレビジョン>という視点の提示。
*この間『反戦+テレビジョン』の取材で、大阪、仙台、長崎、東京など
「問・・・60年安保闘争における<前衛神話>の崩壊とか、ブンド解体とかが、しばしば<政治>の言葉として語られてしまうでしょ。だけど、60年代冒頭に提起された問題っていうのは、現在の<反戦>の闘争の高揚によってすべて止揚されたんじゃなくて、そこでは、どうしようもなく<個>に執着しつづけることによって<政治>の論理に収斂されることを拒むものがあるはずだと思うんですよ。僕たちにとって、<私の状況>っていうのは、それを凝視めつづけることからはじまるんじゃないか・・・・・・。」(「反戦+テレビジョン」における、関係者へのインタビュー)
■  この質問者は前川だが、膨大なインタビューの記録の最後を、この「問」でカットアウトする構成にしたのは村木。
■  政治の優位性の拒否が選択されている。
■  組織・運動への否定性=イデオロギーの対極
■  <闘う>とは何か、への模索
1969.10.21. 国際反戦デー 村木・前川、新宿を彷徨
1969.10.23. 「テレビマンユニオン設立計画書」
■  以下の文章は、<退職-独立>への志向から「テレビマンユニオン」を設立する決意へと至る過程と平行して書かれている。
1969.11. 「いま私は配転先のデスクに座して、一切の労働意欲と職場での偽りのコミュニケーションを捨象するという形で、企業との緊張を保持している。テレビジョンを占有している機構は表現者としての私を拒否する。それに対して私は、配転先にそのような形で居すわることによって、その拒否を逆に拒否しかえす。その緊張感のなかで、一方では<私にとってテレビジョンとは何か>をつきつめ、他方では、私の配転を下から支えた制作者たち・配転されなかった制作者たちのテレビ論を問いつめる。これは当然、私の内側のテレビジョンのイメージを否定し続ける<想像力>の作業になる訳だが、この作業が如何に困難であろうとも、この一点を切りひらく以外に、私と私がかかわってしまったテレビジョンとの<関係>の論理を獲得する道はないのだ」(「映画評論」11月号)
■  <労働と表現>そして<企業=テレビ局と表現>についての思考が深められる。
1969.11. 「ある日、突然、小さな疑問が風のように胸の中を通り過ぎていく。−私の日々の<労働>は私にとっていったいなんなのか、私はいまなにをしているのか・・・。その瞬間、小さな風はみるみる烈風となって彼の身体中を吹きまくり、やがて彼の意識の中にこびりついて離れなくなる。・・・ただひとつ可能なことは・・・おのれの<労働>の意味を根源にまでさかのぼって自己確認することしかありえないのだ」
「(アポロ11号に象徴される 3C=コンピューター・コントロール・コミュニケーション=革命による外側からの変容と)、全ての既成の社会と文化がその存在の原理をはげしくゆさぶられるのとまったく同様に、テレビジョンもその概念が解体され、その存在の意味と根拠を問い直されるという内的インパクト・・・このような<危機意識>は、労働者の側よりも資本の側のほうに、より強く切実にひびいている。」
「68年から69年にかけて噴出したさまざまな矛盾や退廃を、私たちがどれだけ、自己の現在の<労働>の意味とつきあわせて論理化していけるかによって、私たちの“長い夜”は可能性とも不可能性ともなるであろう・・・」(「運搬人は叛逆者なり」・月刊労働運動)
■  明石ハンストに直面し、また「反戦青年委員会」の取材を経て、自己の拠りどころを内面化させるとともに、テレビジョンそのものの変容を見ている。
■  その変容は、<放送労働者>の想像力では捉えられていない。
■  <労働>と<(いわゆる)労働者>の乖離が意識されている。
1970.2.23. 『反戦+テレビジョン』(田畑書店)
■  <個>・<労働>・<状況>・<テレビジョン>
総体としてのテレビジョンと<私>の関係の中から、次のテレビ的行為の選択へ。
「明石一は、<企業>の合理化攻勢に対して、『配置転換』を要求することによって、<演技者>としての自分を殺した。更に、その要求を拒否した<企業>に対して、ハンストという具体的行為によって自らの<死>をさらした。
それだけではない。その行為を拒否しつづけた<企業>によって殺され、無関心の多くのTBS社員たち(その大部分は、ふつうは”仲間”と呼ばれる労働者たちなのだが)によって殺され、そしてそれらのすべてを、意思の有無にかかわらず許してきた”私たち”によって殺された。
幾重にも、幾重にも、彼は殺された。その死体は埋葬人の手によっていち早くかたづけられ、『裁判闘争』という墓碑の下に丁重に葬られてしまった。私たちの内なる<企業>と内なる<労組>によって修復された日常・・・・・・。
しかし、<私>はその死臭を否応なく嗅いでしまった。その臭いは、TBS闘争の敗北以来の<私>の内側でくすぶりつづけてきたもののとふれあって、激しい嘔吐感を催させる」
「59年春、テレビ局に入社してから10年余、私は「テレビドラマとは何か」、「報道とは何か」、「放送局での労働とは何か」、そしてそれらの問いの総体として「テレビジョンとは何か」と問い続けてきた。この問いは私にとって他人への問いかけというよりはむしろ自分自身につきつけてきた問いであり、ひとたび問いを発してしまったら永久に終わることのない永続的な問いかけとなってしまった。いま私は、自己解体の廃墟の中から<私の70年代>へ旅たとうとしている。それは恐らく、いっそう困難で孤独な自分自身との戦いになるであろう」
■  <闘うとは何か>への一つの決着
*「私にとって、そこでは、テレビジョンとの、状況との、労働者自身との関係が問われている。<私>の存在をつらぬく<あらゆる関係>=不可視なるもの、を見極めようと決意するなかで、私は漸くテレビジョンの内部に留まることも、そこから離れることも可能になるのだろう」(同 前川)
1970.2. 「解体の果てのある日、私の抵抗闘争が、もはや企業内の労働者に対して何の有効な問題提起も出来ず、私自身に対しても、外部での自己表現の拠り所としてしか機能しなくなりかかっていることに気づいて、<企業>を離れる決意を固めた」
<私にとってテレビジョンとはなにか>と提起した私たちの問いは、いま放送局の内側で空しくこだまし、風化されようとしている。・・・(早い話が、同志が三十人もいたら私はTBSを離れる必要はまったくないのだ)」
「ただ一点、私がこの共同体を拠点として組織したのは、十一年もの間ドラマ・ドキュメンタリー・ニュースショウなどの番組をつくり、そして作れないできた私とテレビジョンの<関係>を、七〇年代の流動したテレビ情況の中で、最も実践的にたしかめられる<現場>を作ることを作ることを通して、<個>の原理を獲得せんがためである・・・私たちの共同体は、<個>の私との衝突の中で、私たちの時代のひとつの軌跡をつくるにちがいない」「夜が明けたら・・・・・・」(放送批評2月号)
■  村木にとって<選択する>とは、<論理化する>ということである。
1970.2.25. テレビマンユニオン結成  中継車を確保
■  村木良彦にとって、「配転」の1年半は何だったのか?
■  そして、テレビマンユニオンとは何だったのか?
■  <場の組織化>・<労働/経営と表現>・<職業としてのテレビジョンの”選び返し”>をテレビマンユニオンという<共同体>に賭けた。それは、総体としての<関係性>としての<テレビジョン>への思考と実験であろう。
■  「テレビジョンは<時間>である」、から<テレビ的行為>への“投機”。
■  テレビジョンを番組の視点ではなく、メディア=<関係性>として捉える技術・表現・組織・経営・(メディア)環境・政治的=反政治的・<個>など、テレビジョンを構成し、テレビジョンを関係付ける全てについて、論理化する意志がある。
 

□ □

 村木さんは、テレビマンユニオン結成後に、テレビジョンについて次のように語っている。
 「(ヒットラーやゲッペルスが語る、マスメディアによる宣伝戦略についての言葉を引用しつつ)常に流れつづける存在としてのテレビジョンを、あるがままの<現在>としてとらえるとき、これらの言葉が滑らかにあるいは屈折しながら通過して私たちを<撃つ>回路を見極めることが、『いま』『ここに』しかいない一回性を持ちながら、同時に巨大な複製物でもあるテレビジョンの<現在>にとりくむ私たちにとって、大きな意味を持つであろうことは確かでしょう」
 そして、この文章の注として以下の文章が付されている。「テレビジョンにおけるオピニオンとは何か・・・たとえば、いまテレビ放送が一秒の狂いもなく整然と流れていることは放送局がいま社会に提示している明確なひとつのオピニオンとしてとらえるべきではないだろうか。テレビ制作者の<テレビ>への発想が、常に国家と大衆の両者の、或いは左と右の、或いは知識人と大衆の両者の<中間>、しかも両者に等距離な<中間>をつねに志向し、且つ一秒の狂いもない秩序の流れの中に調和する技術をのみ琢磨していることは極めて危険なことではないだろうか。」(1971.9.13.「日本読書新聞」のコラム(「ぼくのテレビジョン」・「テレビジョンの歴史と地理II」所収)
 村木さんは、テレビジョンの危うさを「政治的傾斜」の問題ではなく、メディアとして自立した機能に求めている。テレビ局を離れたからといって、番組制作者に自らを限定することは決してなかった。メディアとしてのテレビジョン、それへの強い関わりこそが、村木さんのテレビ論の根底にあった。
 また、同じコラムの11月1日番では、「いまフリーの制作者になることは、自己の商品化を含めて自立を志向することにすぎないのであり、そのことの両義性をどのように鋭くとらえていくかが問題なのである」と書いている。ここでは、<労働と表現>のあり方について、あるいは<テレビ労働とは何であるのか>について、さらに踏み込んで考えようとする意思が読み取れる。それは、思想の問題として意識されている。

□ □ □

村木良彦のテレビジョン思想を構成するもの
以下は[村木テレビ論]キーワードであり、これをどう論理化するかは、ぼくたちに残された仕事=テレビ的行為である。
労働と組織
テレビ=組織=<企業と労働者の関係>の乗り越え
⇒<場>としてのユニオン
⇒(ATP/MXTV)へ
現在の放送産業の制作構造と労働力構成の問題は、村木的視点の幅の内にある。ここでも、<労働>の側より<資本>の側が先行してきた。
技術
エレクトロニクス=時間性と同報性
= 巨大コピーシステムとしてのテレビジョン
= 現実のフィクション化/フィクションの現実化
= (1970年時点で有線テレビの可能性を想定
現在であればインターネットとテレビジョンの関係に相当する論点の提示
この視点は、都市メディアの関係に敷衍されている
21世紀における、デジタル技術(ネットワーク化とアーカイブ化)による情報の<場>の激変は、テレビジョンとの関係において[村木メディア論]の中核になっていたであろう。
思想と政治
[近代=進歩]への基本的懐疑
批判者の視点
アンチ党派性=権力との関係=文化と政治
早い時期から、ポストモダンの思想家たちの視点の取り込みが行われている
・・・ポストモダンの先行者としてのベンヤミン、メディア論の先駆者マクルーハン、そして構造主義のレヴィ・ストロース、などへの関心
ジャーナリズム/原点としての<個>と<公共性>
(この項は、「村木良彦ロングインチビュー」による)

=公共性は<私性>を前提とする
=近代ジャーナリズム批判・・・<私性>の排除
=「コミュニケーションは<私性>の表現
=「客観・中立」の虚偽性
=ナチスの宣伝戦略とメディア
あらゆるものと<関係する>テレビジョン
最後に、村木さんの二つの言葉を記しておきたい。
  「テレビ局での11年、制作会社での14年、あわせて25年となったテレビジョンとのかかわりは、これから第三の形が始まることになる。このスリリングな出発点で、私はいささかの胸の高鳴りを禁じ得ない日々である」(未知の荒野への挑戦)
  「テレビジョンにかかわる者の存在をつらぬく<あらゆる関係>=不可視なるもの、を見極めようとする地点から出発するしかないのだ。この困難で苦しい作業を、<私>即ち<個>に執着しながら、そして既成の論理に収斂されることを拒みながら、どこまでつづけられるか・・・・・・という絶望的な営為が<私>のまえに広がっているのである」(クローズアップとロングショット)
  (いずれも『創造は組織する』1984. 田畑書店所収)



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